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4:00AM

”考えろ”なんて言わないから

靴擦れ

自分の名誉が傷つけられることを恐れない人間は、やがて他人の名誉を傷つけることになる。
それは、他人の名誉を傷つけることは、自分の名誉をリスクに晒し、傷つけられ失うことの第一段階だと言えるからだ。
(その時点で大半の人間はその進行を止められないし、これは正常な事だと思う)

人に笑われることを恐れない人間こそが、本当に汚い意味で他人を嘲笑う。
別の地点から第三の力が働かなければの話であって、同じような仕組みの社会的な上位互換であれば、法律とか規則によって抑止が効くが、コミュニケーション上のくだらない問題(僕はくだらないとは思わないけれど)では、感情論的な空気が支配するので誰も止めてくれなかったりする。

「人にやられて嫌な事は、人にするものではない」
幼いころから言われ続けてきた言葉は、意味があるとしたらそういうことなんだろう。
僕の知る意味で信用する理由が、十分すぎるほどある。

 

―――

 

人生の敵に立ち向かうことを推奨、応援する歌。
これが世に蔓延することで、その場の全員がその言葉に縋るという凄惨な現状。
正義の少数を支援するべきものは、いつからか大衆の背中を押す。
敵は誰だ?
私には一つ、穏やかな閑静をください。

 

―――

 

靴擦れ。
新しいスニーカーを履き始めて、数日たってのこと。
かかとの少し上、靴下と白い生地に血が付いていた。
歩いているうちに痛みは気にならなくなっていて、その間に血液は流れ出ていく。
機関があれば靴の形状も整う。
何も苦ではないはず。

必要な事ならやれる人間だって思う。
そうしているうちに生力が流れ出ていっても、誰かのためだとか言った途端に、青白い顔で「これでいいの」と言う。
でも純粋に自分自身のためにできることに大して最大限の努力を尽くした記憶は無い。
いつも最後だけ失敗する人間。
あまりにもそれが”自分らしくて”笑えてきた。

 

―――

 

「人間らしさ」という言葉を嫌いな人間に対して使う時。
この言い方の全体が、その社会的な存在規定と意味を内包していて、いわゆる『社会的人間』らしさを言っている。
これはもともとの野性的人間(ヒトって云うやつ?)としての規定をまったく知らないどこかに放置して、今ではもはや人間=社会的人間でしかあり得ないのだという事実、ごく自然な流れの結果。
そういうわけで、嫌いな人間、大体は気に留める必要も無い愚か者(なのに無関心でいられない自分は未熟だなと感じる)に対して言う「人間らしい」は、要は社会的、その名誉の面で恐れている結末を避けるための必死な愚策に溺れているという構図を卑しいと思っているだけのこと。

4/16

今年の僕には、夏も秋も冬も無いような気がする。
かろうじて春は今日見てきた。
来週で潰えてしまうから、しばらく後の記憶にできるよう、できる努力をしてみたい。

 

過去と未来は平等に対峙しない。
価値観の比重は人によるものか、実は一致するのか。
不確定なものはどうしても信じられない。
期待は防衛本能だ。
未来に起こり得る何か恐ろしいことから、僕はずっと目を背けていたい。
日々をやりすごすことは、もうできないらしい。
一日が終わることが、当たり前に恐ろしい。
Baby you can / Baby you can ...
前は何処で休んだ?
4つほどある恐怖の輪郭を、より一層不鮮明にしていくと、死ぬことが何なのか分からなくなる。
少し先で連番が途切れているのが見える。

 

―――

 

寂しいって感情はあまり純粋ではないようだ。
まるで自分の所有物であるかのように扱っていた人間が、自分から離れていったり、他人の物になってしまうのが悔しいとか、憎らしいとか。
そんな綺麗でないものの寄せ集め、簡略表現に過ぎないのかもなあ、なんて。
ずっと綺麗な人間でいたいと願う。
真っ白。

 

「感情」という言葉で一まとめにするけれど、本当はそれぞれ全くの別物であるわけで。
好きも嫌いも悲しいも嬉しいも寂しいと憎らしいも、全部違うもの。
対立するように見えるものだって、天秤にかけてみればつりあわないし。
言葉で捉えることしかできないものは多くあって、それに気づくたびに真実に触れないことを嘆いている。
言語間で多少の違いがあるだろう。
感情の語彙はまだまだ豊富とは言い切れないように思う。

 

――

 

幼い子供たちが僕を先導して歩いていく。
久しぶりに会った。
名前は覚えてもらえていない。
向日葵なんて、いつも俯いているように見える。
その方が、少し嬉しそうな雰囲気がある。
虫取り網を持って僕を殴るのが好きな、下の子は笑う。
車がまったく通らない道を、のぼっていく。
神社は相変わらずそこにあって、いつも僕らを出迎えてくれるような気がした。
だからただいまって小さな声で言った。
でも或る時から蝉の鳴き声は、聴こえなくなった。
家に帰るとあの子は、風船のハンマーでも僕をしきりに叩いていた。
でも大きなぬいぐるみは、ずっと大事に抱きかかえていた。
夜はおやすみなさいと言って、暗闇で埃が舞っている部屋に消えていく。
何を考えていたんだろう。

 

写真を整理していたら思い出した、2015年の夏。

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4/10

言葉を自由に使えなくなった気がする。
最初から完全に自由だったわけではないけど、前よりは変わった。
思ったことを口にすればいいだけのことなのに、それを本当に自分が思っているのか、確証が無くて言えなくなる。
言霊的な結末が恐ろしいというのに近いかもしれない。
例えば、「死にたい」と言ったとしてその瞬間、自分が今まさに死のうとしている状況に置かれたら、それをすんなり受け入れられるだろうか、ってことで。
死にたくない嫌だ死にたくないと言って泣きわめくのなら、その言葉は本気じゃなかったことになる。
本心に確信がもてるかどうかなんて、自分ではわからないもの。
「死にたい」と簡単に呟ける人は、その点を考えたことが無いんだろう。きっと疑ったことが無いんだろう。
自分だって死にたいと言ったことは何度もあるけど、余程苦しい時じゃなきゃ言わなかったし、あれは嘘じゃなかったと信じてる。
言ったことが本当になったとして、それを認められずにいるのはすごく情けないことだ。
だから何も言えなくなった。
誠実な人間になったとは言えない。ただ恐ろしいだけ。
嘘の言葉を吐くのは簡単だけど、そこまで落ちぶれてしまったらそこらへんのゴミクズの仲間入りだ。
悲劇の主人公になりたい欲望が消えてない(消えることは無いだろうけど自制はしてる)内は、そうやって何もかもを疑ってしまうんだろうな。
これで差別化を図れるなら別に最悪な事でも無い。

 

――補足1:逆の話――
例えば、死にたいと言った瞬間にジョン・メイトリックスが利き腕じゃないほうの腕で僕の足を掴んで崖から落とそうとする、としよう。
次に書くのは、先に書いたことに言える反論みたいなことなんだけど。
逆さ吊りになった時にパニックになって「死にたくない!」と叫んでいる。
これは本心と言えるんだろうか?
本心というものが理性から論理的に導き出された結論だとしたら、パニックになって本能が出ている時に言う言葉は、『本心』では無いかもしれない。
(もしかしたら心理学でこれに関して定義が存在するかもしれないけど知らないから放っておく。)
そうなれば、あくまで理性的に出した結論が現実と対立している構図では、それを言葉にすることは間違っていないんじゃないか?
よく分からないけどこれも十分考えられることだと思う。

 

――補足2――
そもそも僕は痛みを伴わずに死にたいので、死にたくないと叫ぶのは単純に痛いのが嫌だと言っているだけかもしれないな、ということ。
死への恐怖か肉体的苦痛への恐怖か、区別がつかないのはおかしなことじゃない。

blue

心臓は動いているし脳は働いているのに”死んでいる”とはどういうことか。
生きてることと死んでることがどう違うのか。
人間は案外頑丈にできていると感じるときもあるし、案外脆いのだと思う時もある。
一度壊れてしまえば、その脆さに勘付いてしまえばトラウマが染み付いて四六時中怯えてしまう。
頑丈だと思ったらそれが複雑になる。
弱い者になりたい人はいる。
希少じゃない。
でも自分は頑丈だ。涙は出ないし悲劇も関わってない。
それでも誰かに守ってもらう、泣きじゃくる理由がどうしても欲しくなる。
そうして、量産型メンヘラが完成した。

 

死んでしまうことは、立て直しが効かなくなることだと思う。
やり直しではなく。
時間を戻すとか、それと同等の効果を求めているわけではなく。
数値がもう下降していくのを止められない様に。
生態的に生きていても、もしそうなれば死んでいるのと同じかもしれない。
ここまできて気づいたことがあるんだけど、死ぬか生きるかというのは、現代人、大半はあまり関係ないんじゃないか。
だっていつも問題になるのは生死の手前での重大な問題だ。
100で生き0で死ぬなら40~50を彷徨っているような人たちだから。(目安)
言葉上では「死ぬ~~☆(ゝω・)v」とかもう何の意味も無いし。

 

―――☆(ゝω・)vキャピ☆(ゝω・)vキャピ☆―――

 

自分がいま一番言いたい事に、それとなく似ているような、ありふれた言葉を用意されたテンプレから選び取ってコミュニケーションをとるので、どうしても誤解が多発して、どちらも悪い訳じゃ無いのにお互いがお互いを分かってくれないような気持になる。
それからずっと、何が本心なのか探りながら人と会話をしてるんだけど、疑いだけで始まって疑いだけが残るからよくない。
言葉だって本音や感情に一番近いものを選んでいるだけなので(それを言っちゃお終いだが)その差を疑い始めるときりがない。
けれどそれが分かり合えるようになったら素敵なことだと思う。
自分には、無理だろうけど

 

―――狭い部屋で独り、パソコンだけと向き合って何日も過ごしていて、それとなく言葉が浮かんだらメモ帳に書き留めておく。
そうじゃない時もある。
何かしなきゃ損だよなあと時間を無駄にすることがよくある。
愛されたいという妄想も人と距離ができるにつれて目に見えるようになってくるし、収拾がつかなくなって困り果てていたりする。
4月になる。
春は心がむかむかするから好きじゃない。
寒い時は心が空っぽで痛いけど、その痛みはむしろ愛着が湧くような痛みであって、本当に激痛ってほどじゃない。
ニヒリズムばっかりが脳を占めている訳じゃ無いけど、むしろ何も無いところに生まれるどうでもいいようなどうでもよくないような思考が大好きなので。
もちろんいつまでもそうやっていられるわけじゃないんだ。
2年くらい前から意識し始めて、ちょっと早すぎたかとも思う。
本当にシャレにならないくらい追いつめられたら、助けても言わず独りになると思う。
心の底のどこかでは、そんなことにならないって信じてる。
でも自分の頑丈さに気づいている人間なので、いつまでも自分を上手く騙してやっていけるかどうかなんて分からない。
執行猶予が確実に減っていく。

 

hitogoroshi

夢か、ゲームか、お化け屋敷か。
或いは前世?
僕は人殺しなんてしたことない。
でもはっきり分かることが記憶に棲みついてる。
無惨な殺され方をした顔は上を向いていて、口から血を吐いていて、目がとんでもなく見開かれている。
そのそばを通り過ぎようとする僕はいつも、それが今にも動き出すんじゃないかと、怖くて怯えている。
通り過ぎようとしたら足を掴んでくる。
そんなスプラッタドラマのような光景を、まるで自分の記憶かのように思い起こす。
知人が死ぬ様子を想像しすぎたのかもしれない。
それはもう、よくある事だけれど。
「親や友達が目の前で死ぬ」そういうことを考えるのは。

―――――

人を励ますってことは無責任がいつも付きまとっていて、それをできるだけ、発言に説得力を持たせようとはしているけど。
あり得ないようなことを言ってる訳でも、心にもないことを言ってる訳でもない。
でももし自分の言葉でその人が気分を持ち直しても、その結果同じように失敗をしてしまったら、怒りの矛先の一部は自分に向けられても仕方ないかなと思う。
そんな未来を少し心配しながら、「きっと大丈夫だよ」なんて自分が言われたらぷっつんといきそうなことを言う。
平気で言ってるわけじゃない。
でも、無責任だと思う。
相手にとって何がいいか、なるべく多くのことを分かってあげられたらそれに越したことはないだろう。
でも人間は相手に求める物を、同じように求められたら拒んでしまいたくなる生き物なので。
程度の問題だとは思うけど、なにが上分別だか分かりもしない。
難しいね。

--

こんな気分のときに誰かと話ができたら

 

ちょっとしたことを教えてくれたら

 

それだけで随分救われるんだろう

 

楽しそうな彼らに触れることはできない

 

心が、寒くて

 

みんなに憧れてる

 

何も知らない、何でも分かっている人たちが羨ましくて苦しい

 

誰かいませんか

 

そんなことを、重複するまで無意識に呟いてた

 

苦しい