時祷書

中学生なんてのはまだ幼い子どもだから、そこに先輩後輩なんていう扱いづらい権力を与えてしまったら、やっぱりその仕組みには失敗だってあるもので、自分はそういう場所にいたのだと思う。部活でスポーツをやっていたけど、上手ではなかったし、上手になろうともしていなかった。ただ全員が必ず何処かに所属しなければいけないらしかったので仕方なく、少しだけ経験のあったその運動部に入った。ほぼ毎日、放課後の3時間程度の練習は、ただ時間が過ぎるのを待っていた。遠くの壁にかかった古くて大きな時計を気にしながら、少しも針が進まないことにイラついていた。練習でも試合でも、メンバーの足を引っ張ってばかりだった。そうして、前に出れずに身の程を弁えようとすることだけに神経をすり減らして、帰ったら忘れるためにたいして面白くもないゲームに時間を使った。好かれるばずもなかった。試合に勝っても笑いはせず、負けても泣きはしなかった。3年の最後の試合でも。みんな泣いているのを不思議だと思いながら、それでもおかしいのは当たり前に自分だと分かっていたので、俯いて座るしかなかった。馬鹿にされたり、笑われたりしたことは少なかった。明らかに不必要な存在を見る目と、自分が自分に負う惨めさだけに縛られて、上手に振る舞えなかった。運動神経も、その競技に関わる判断力もしっかりしていた彼らの、その下に自分はいた。ただし彼らの人間性はゴミクズ以下だと正直に思っていたので、運動のできる人間は性格が悪いというか、自分とは合わないのだということを決めつけて、今でもそれを本気で信じている。

 

もう運動部には入らないと決めた。高校では人の少ない(少なかったが、自分の代で倍以上になった)文化系の部に入った。幸い興味を持てることがあったので、帰宅部でいいやと思ったことはなかった。その3年間は楽しかった。友人にも恵まれた。部活に関していえば、苦しいことなんて一つもなくて、忘れたくないことだけがそこらじゅうに散らかっている。

 

―――――

 

中学のときのことなんて、いまの人格には関係ないと思っていた。いまの自分がこの自分になったのは、高校生のときだと思う。なんなら、「物心ついた」時期がそうだとでも言ってしまいたいくらい、それ以前のことは関係ないと思っていた。最近中学の頃のことをよく思い出す。バイトの環境に上手に馴染めなくて、誘ってくれた友人がだんだん友人ではなくなっていくような未来を見てしまう。いくら友達だといったって、新人だといったって、足手まといは本能的に嫌われるじゃないか。そんなこと分かってる。あの頃とまったく同じことをしている。ああそうか自分は、あの頃から成長していなかったんだと気づく。高校のときは上手に逃げられたけど、その代わり、欠陥は埋められないまま残っていたのだと知る。また明日も迷惑をかけ、不安と惨めさを積み上げ、時間がたつにつれて薄まるのを待って、数日後にまた同じことをやり直す。面接のとき、僕のことまともな人間だと思いましたよね、すみません、騙したつもりは無かったけど、きっと後悔してますよね。ごめんなさい、ごめんなさい。笑いごとじゃない。

 

―――――

 

終わりが見えなくなってくる。1か月先のことも想像できなくて、ただ明日に真っ黒なデカい壁が見えて、毎日ギリギリでやっている。この、答えのない感じ、冬なのかなあって思う。冬を好きでいたかったのに、毎年この時期になると必ず調子を崩してしまって、風邪をひいたり死にたくなったりするものだから、冬が怖くなってしまう。どうしようもなく苦しい時に、答えが無いのが正解だと割り切ってしまうことはできるんだけど、それって何も解決しないので、気休めにすらなっているかどうか怪しい。そうやって出られなくなった袋小路で、死ぬしかないなーと呟いてみて、背中に乗っかった重い何かが降りるような、そんな気持ち。そのあと、家族や音楽や写真のこと、要するに義務と趣味を思い出して、甘えちゃいけないなって、それを背負い直す。常に死を思いながら生きていくのだ、なんて決心してみたりする。実は冬の間だけこれで切り抜ければ、暖かくなれば少し楽になれるのを知ってる。だからそれまで、どうにか生き抜いていかなきゃならない。つらい、苦しい。そんなことを毎日やっている。

写本

誰にも褒められず育った人間が自分のことを自分で褒めてやろうとするとき、その言葉には説得力が備わっているんだろうか。最近よく考えている。

 

自分はよく頑張っていると思う。動悸のするような、2年くらい積み重なっていた同じ不安が凝縮された一瞬を何度か切り抜けて、予定通りに物事は進んでいる。やらなければいけない(と自分に課した)事柄はすべて順調だ。でも不安なのはなぜか。自分は頑張ったと思うとき、人は後ろを振り返っている。これまで歩いてきた道筋と足跡を見て、安心したり、喜んだりする。登山の途中で振り返り、低い街を見下ろすようにして、自分はここまでやって来たのだと知る。ちなみに頂上は見えない。終わりが見えないので、これから訪れる苦痛の数が減ったことによって喜ぶのではない。ただ過去を見る。で、自分はそんなことしてられないのだ。ひとつの苦痛をパスしても、また次の不安を見つけて、正面の少し先にあるそれに向かって嫌々進んでいく。後ろ見てる余裕なんて、あんまりない(たまにある)。不安はひとつ消えるとすぐに次が取って代わる。その席が長い間空いていたことは無かったと思う。ちゃんと頑張ってる。だからそんなに不安にならなくてもいいのに。そう言い聞かせようとする。楽になった気がする。それは勘違いだったと気づく。

 

でもきっと大丈夫だろう。不安症の結末はいつも同じだ。あまりに厳しく見積もっているので、すべて終わった後には「思ったほどでもなかったな」って言えるんだから。

 

―――――

 

甘えていてはいけないと思う。が、自分にとって何が甘えなのか分からなくなっている。ひとに頼ってばかりでは甘えだというけれど、自分にとってはひとに頼るのがとても大変なことで、それを避けて、一人になって逃げて引きこもったほうが楽で、それこそが甘えなんじゃないかとも思うわけで。友達と友達として付き合いたいけどいつまで経っても相手の本心を窺いながら、怖がりながら関わることにもううんざりし始めて、苦しんでまで一緒にいようとする必要なんてないと思って、いつも逃げるようにして離れて、一人で時間を潰している。

 

一人は楽だ。愛されたいなんて思ったことはない。最初から人間にはそんなの無理だとさえ思う。不埒な理由から寂しいなんて言い出しても、きっとすぐに忘れるだろう、そんなことは。だからこれでいいの。

 

そうしてまた厳しい冬に向かって、破滅の準備だけを進めてしまっているような気がする。殴り書き。部屋が寒い。

大人になれない

「変わっちゃったね」と言うのが嫌で、遠回しにまた相手の気に障るようなことを言って、人間関係をダメにしてしまったことがある。その言葉は、まるで相手に何かを期待していたみたいじゃないか。

 

「この人変わっちゃったんだな」というのは、所有欲からくる言葉だと思う。確かに自分は相手に期待をしていた。かつて自分に笑いかけた相手そのものがずっとそのままでいてくれることを期待した。誰かを自分の物にできるわけがないのに。人が変わっていくのは止められない。変わってほしくないと願ってはいるけど、気持ち悪いので、それを絶対言いたくない。

 

高校を卒業したタイミングで、仲の良かった彼ら彼女らは、日本各地に散っていった。片田舎の出身なので、特に都市圏や中枢都市に出ていった女の子なんかは、今頃立派なクソビッチになって想像もできない変貌を遂げているのだろうという偏見がある(自分だけです)。そうでなくとも、みんな自分の知っている彼らではもはやないと思う。「変わっちゃったんだな」と思うのが怖いので、もう二度とその友人たちには会わないと思う。自分を支えてくれたり、自分が支えたこともあっただろうし、感謝しなきゃいけないことはたくさんあって、それらは記憶の中に、大事にしまってある。もう会いたくない。会えない。みんな元気かな。

 

―――――

 

卒業という一大イベントを経て、僕らは見慣れた学校を強制的に追い出される。自分はその度に友人関係をすべて失って、春、別の場所で新しく作り直すということをやっていた。そのせいかも分からないけど、大事な友達や友達以上の人を、そういうピリオドの向こう側に連れていきたいと思ってしまうらしい。高校3年の同じクラスで、卒業式の直後に仲良くなった女の子がいた。大学生になってからしばらくの間、遠い距離にいる二人は電波で意思疎通を図ったり、たまに会って遊んだりしたのだけど、ある人種にとっては当たり前のようなそんなことを、自分はいつも待ち望んでいたらしかった。今ではその関係も静かになったけれど、こうなることは最初から分かっていたし、思い出を壊さないまま終わることができたので、忘れることはないと思う。今となっては胸の内で感謝する以外に何もできないな。なんだかそういうことばっかりな気がする。

 

―――――
感謝という言葉で、自分の醜い行為や想像を無かったことに、あるいは正当化してしまうことに頼り切っている自分に気づいてます。最低。
―――――

 

逆に、自分は自分のままでいることに固執しているような気がする。いつも後ろを振り返って、昨日までの自分がどんなだったか確かめようとしている。でも、ある人間を一言、二言でまとめるなんてことはできないので、自分がどうだったかなんてよく分からない。なるようにしかならないのだと諦めつつも、失ったものを気にかける。かつては一緒に引き連れていた自分の一要素が、気づいた時には分岐点を過ぎて遠いところにいってしまっている。そうやって失くしたものは時に取り戻せたりするけど、それができないときもある。忘れてしまうこと。前にもこんなこと書きました。

 

自分は未熟者らしい。かつての友人に会いたくないのは、まるで成長していない自分を見られるのが怖いからでもある。みんな僕の知らない場所でちゃんと大人になっていくのに、僕は何も変わっていない。変わりたくないと宣いながらただの怠惰に浸かって、それを手軽なペーソスや自己憐憫で誤魔化してきた。文化的な生活だなんて言ってるけど現状はそんな感傷的な書物や音楽や映画が欲しいだけなんだろう。そんな気がする。

"do you love me"

 当たり前だけど、あるとき「それを忘れていたな」と気づく瞬間は、その内容を思い出す瞬間と同時であって、忘れるという現象(行為ではない)は、到底自分の手には負えない。気づいた時にはすべて終わっているから。逆に、忘れよう忘れようと念じてみたところで、却ってそれは脳裏により深く刻まれてしまう。

 

 自分が尊敬している、ある二人の音楽家が、何処かで、どちらも似たようなことを書き記していたなあとぼんやり覚えていて、その文章を探してみた。めちゃくちゃ探した。すると、ひとつはブログの中に。もうひとつは、CDについてた冊子の中に。「人間は、忘れることで生きていける。」そんな感じのことを言っていた。似たような言葉は、他の何処かでも聞いたかもしれない。というのは、これを聞くたびに自分は、あまりうまく説明できないけど、「本当にそうだろうか」というような疑問を浮かべては、いつも未解決のまま仕舞いこんでいたから。もっと言えば、人間そんなもんだろうと自覚しながらも、それでいいんだろうか? という感じ。

 

 忘れてしまえば楽になれる。しんどいこと、思い出したくないこと、裏切られた、捨てられたこと。そうやって悪意で呼び名を付けたくなるようなたくさんの記憶や、悪い癖を。忘れたらどんなに楽だろう。こうやって下手な嫌味を並べさせる意識は、(これはつまり「忘れる」という行為に対する嫌悪感だから)、同じように、そんなことを忘れたくないと願うよう仕向けてくる。だって忘れたら、何か大事な物まで忘れてしまうような気がする。つらい思い出を大切にしまって、それはいつか自分や誰かの助けになると信じて疑わない。時に無神経な精神的マッチョを遠ざけながら、臆病者のメンタリティーを保持することで、同じ種類の人間を支えられると思っている。明確な憎悪や恐怖、不安、自分に対する不甲斐なさのような、たくさんの無駄で重い荷物を背負い続けた結果生まれたこの弱さは、いつか誰かに「あなたは優しいね」と勘違いすらさせたあの弱さだから。

 

 とはいったものの、忘れてしまうことに抗えないのも知っている。今だってもう、昔信じていたいろんなことを忘れたような気がするし、その頃の自分に見せたら怒られそうなくらい、いくつかの信念を知らないうちに捨ててしまったのかもしれない。だから、今後の保証だって、自分には出来ない(他人にできる訳も無いけれど)。いま抱えているものをいつか忘れてしまうかも知れない。誰かへの好意だって同じ。「永遠に愛し続けますか」という問いは、「たぶん……」と付け足さずには了承できなかった。これはとても愚かで不誠実だと思う。じゃあ今度から、自信が無くても永遠を誓って見せようか。嘘の無いように保険をかけても、あるいは未来をはっきりと誓ってみても、誰かを裏切るような結果(相手がそう感じ取るならそれはいつでもそういう結果だ)になったとき、相手の感じる痛みにたいした差は無いのだから。

上手な休み方

今日の空はとても綺麗だったのに、一歩も外に出ることなく終わってしまった。
外出の為にかかる数十分が面倒だったというだけの理由で。
昨日いろいろあって疲れたから、なんなら今日はずっと寝ていようかと思っていた。
けど、そうやって潰した一日を後で後悔することもまあなんとなく理解はしているので、9時頃に起きた。自分にしては早起きってことになる。
結局、ずっとPCに向かって意味もあんまり無いことをし続けていた。DVDを3つ見た。

 

答えも出ないことをずっと考えていた。
どうしてこの先に進むのがこんなに怖いのか、ってことを。
よく考えれば、浮かんでくるのはいつも手厳しい人たちの無表情だった。
「今日からきみは一人だ、さようなら」と言って僕を捨て置き消える人や、悪意のない一言で怒らせたために、「勝手にしなさい」と言って玄関から僕を締め出した親の顔。次やられたらアパートの3階から落ちてやろうかと思ったものだけど、結局次も外で泣いているだけだった。他のうちに迷惑がかかるから静かにしろと言って今度は家に引きずり込む。子供として当たり前の反応をしただけなのに何をしても怒られるような気がした。

 

人に頼らなければ心がどんどんきつくなる。
でも頼ってしまえば、見捨てられる恐怖に怯えるばかりで、それも苦しいんだろう。
大人になれなかった。人に頼るなんて恥ずかしいから。これが本音。
両親にメンタルの不調を訴えたことはたった一度しかない。
ある冬の夜中に、別にいま心配しなくもいいようなたくさんの心配事を思い出して、その雪崩みたいな不安に呑まれて泣いた。それまでも、似たようなことはあった。そのときはたまたま、リビングでテレビを見ていた親のところへ行った。
思っていることを話した。「死にたいなんて言わないでよ」「明日は学校を休んでいいから」そのくらいしか言えなかったことを、いまは責めようとは思わない。
「病院に行こうか?」そこで同意していれば、未来はもう少し変わったかもしれないのに。場合によっちゃ薬をもらえたかもしれない。
まるで自分の不安に向き合うことを、親が放棄したような、そんな印象を感じ取ってしまって、そんなものいらない、と言った。
何も解決しないまま、そのときは泣き疲れて眠った。
人に頼っても、あんまり楽になれないのな。
そう理解してからは、しんどくても吐き出す場所はツイッターくらいしかなかった。それでちゃんと生きてる。
これでも、先の保証は何も無い。
2年ばかり前のことでした。

 

先の不安に気を取られて今現在を何も楽しめない。心が休まらない。
上手な休み方が分からない。
ちょっと気分が悪くて学校を休んだ日は、学校にいるみんなの授業が終わる時間まで、僕は家の中で身動きが取れなかった。その時間を過ぎると、そろそろ自分も自由になっていいだろうかという気になって、遊び始める。もう日も暮れた夕方に。
自分を追い込んでしまう以外に進展のない休日なんて健康に悪い。
でも、もう手遅れだ。
また明日どうにかしようと思う。きっと。

ボツ原稿

2016年の秋から冬にかけて、ゆっくり組み立てていた原稿。

結局収拾がつかなくなって、完結もされずボツになった。

それ以降、今までに書いた2つの短編の執筆中、ボツ原稿の中から良い部分を抜き取って使えるかもしれないと思って残していたんだけれど、使う機会が無かった。

きっとここにある言葉はここにしかいられなくて、別のところで使うために剥がし取ろうとすれば痛みも伴うわけで。また何か書くときは、その時にしか降りてこない言葉を使えばいい。

自分では納得のいかない部分も多いけど、良いところもあると思ったので、そのボツ原稿をここにあげておこうと思った次第です。

2部構成になる予定だったので、けっこう長いうえに、途中部分までしか無いけれど。

 

―――――

『』

夕日が山脈に沈もうとしていた。
橙色の大きな光源は、目の前にある送電塔の、その鉄骨を簡単に侵食していく。
朧げな光景から離れることは難しく、夜の幕が降りてくるのはもう何度も目にしたことがあった。
「でも君は、戻ってこないんでしょう」
制服の少女は小さな声で言った。
綺麗な細い糸のようなその声は、秋の、荒野のように禿げてしまった縄手で風に吹かれれば、容易に切れてしまいそうだ。
夏が終わったことを感じさせるこの冷たい風は、つい最近始まったものだった。
その風に遮られると、彼女の声は、隣にいる少年にはほとんど聞こえなくなってしまう。
「しばらくはね」
間を置いて、少年はようやく口を開いた。
「心配している?」少年は問う。
「いつも通り」
あなたのことが心配だ、というのが彼女の口癖だった。
彼は分かっていたし、彼もそれは同じだと言った。
彼女は笑わない。
口は何かを言おうとして、躊躇い、諦めた。
時々相手を見やっては、行き場の無い目を見つめるだけ。
それを何度か繰り返した後、少年はもう帰ろうかと言った。
一緒に居ることだけが、今は一番苦しかった。

何処にも予定は立っていないのに、それでも二人は、もうじき離れ離れになるような気がしていた。

「―――――。」

彼女は、ずっと前から準備していた、ただその一言を彼に当てつけた。
彼は何も言えなかった。

轟音。遠くに小さく見える旅客機が見下ろしている。
廃れた田園だけが広がる中、二人はたった独りになって目を閉じていた。

忘れてしまった夜のこと。

― ― ― ― ―

夢の終幕。
現実の確認以前にけたたましくアラームが鳴る。
通常の朝と同じように、半ばパニックになりながら体を起こし、それを停止させる。
端末を床に叩きつけたくなる程に朝を恐れているのも、毎度のことだ。
とても長く寝ていたような気がする。

しばらく続く混乱の中で、彼は送電塔の夢と、同時に介入してきた彼女の言葉や思考に怯え、その声や口や目が、白く霞むもやの中で浮かんでは消えていくような幻覚を見ていた。
彼女の思った事、そして彼が思ったことはついにその通りになったし、今では思い出すきっかけが無いほどに距離や感覚の面で遠く離れ過ぎてしまった。
それなのに、彼女は彼を忘れてはいないと訴えるように、声を聞かせてくることがある。
時にはサブリミナルな慟哭も彼の脳髄を狂わして、その空恐ろしさから彼はまったく抜け殻のようになってしまうこともあった。
忘れようの無い罪と、行き場の無い悲痛とが行き先を縛られ、収斂した先端がきっと此処なのだと彼は考え、気づけばこの現状に慣れ切ってしまっていた。

玄関の薄いドアを開くと、強い風が一瞬で部屋に滑り込んでくる。
外に出ると急いでそれを閉め、鍵をかけた。
アパートの2階、その狭い通路からは正面の高層マンションのおかげで何も見えなかった。
階段の手前にある郵便受けでは、どこの箱にも新聞紙が無理矢理突っ込まれている。
彼のところにも同様に、2日分の新聞。
『505 宇告』
彼はそれを開けずに通り過ぎていった。

― ― ― ― ―

東西に伸びる大通りは、自動車や黒いスーツで溢れている。
おおよそ一般の出勤時刻に、彼も―――宇告観月というこの青年も、朝日に背を向けて小さな事務所への道を歩いている。
1年程前に街へ来てからたった一つ幸運だったことと言えば、勤め先の所長がまともな人間であったことくらいであった。
意味の無いものだと分かっていても、ただ楽なので、職場については特に不満を持っていない。
同じようにこの街全体が、まったく無害だった。
通常と変わらず暗い顔をして歩く人たちは、お互いに気を遣わないだけであって、稀に少々気違いじみた浮浪者が騒ぎを起こしても、関与しない者はまったく関与しないその態度を崩さなかった。

未明の路上に撒かれた吐瀉物の処理は早い。
殺人者の拘束と、その件に関する新聞記事、またある職場がその欠員を補充することの、どれもが簡潔に済まされていた。
つまりは、それらがこの街においては習慣化していたということであり、宇告はそれを眺めるだけの習慣を持っている。
人々は決して部外者などでは無いが、まるで他の街との境界線を知らないかのように無頓着な様子を演じているという人間は―――彼もそれに違わないが―――人口の大部分を占めていた。
この小さな町で、それはまるで遠い場所での出来事のように知らされ、処理された。

強風は絶えず彼を押し返そうとし、彼の耳や頬は激しく冷やされ、痛んでいる。
同じように、それらに抗って歩く影がちらほら見受けられた。
彼はある細い路地へと逃げるように入っていった。

狭い路地の中で密かに営業している雑貨屋の手前。
ダーツ盤に向かって小さなナイフを投げる遊びをしている少年たちは、いつも通りそこにいて、いつも通りそれをしている。
壁に掛けられた円盤は、中心に近づくにつれてその深い傷跡も増えていく。
連中がほぼ毎日こうしているということを、街の人間なら大抵は知っていた。
そして今、宇告が連中を眺めていたとき、ある一人の順番、彼は自分の爪先にナイフを突き刺した。
単純に、投擲が下手だっただけのことであった。
苦悶の表情はすぐ下を向き、蹲ってしまう。
連中は指を差してその鮮血とうめき声を笑い、かわいそうな彼は喉に擦りつけるようなしゃがれた声で喘いでいる。
酷く純粋で容赦のない苦痛がこの喜劇的な空気に埋もれているということは、実に人間的で仕方のないことだった。
連中の一人が宇告に気づいて睨みつけたので、彼はまた逃げるようにその場を去った。

空は灰色で、今日は多分それがずっと続くようだった。
背の低い住宅街と電柱。
グレーを背景に黒く沈んだところに、また黒いカラスがとまった。
うごめく影は数を増していく。

―――それらは繋がって、増殖して、空を覆うほどに大きくなる。
―――気づけば一面が深い黒で満たされた。
―――どこまで腕を伸ばし入れても、決して底に触れられないよう―――――

 

ただ暗いだけの夕方、宇告は事務所からの帰り道を歩いていた。
特別変わったことも無く、今日の大部分が終わったように思う。
広い間隔で続く街灯を線で繋ぐように目を移す、遊びとも言えない習慣を今日もしていた。
このくらいの時刻から、街の中心部は騒がしくなる。
彼はそれを避けて、ひときわ光の無いところを通って行った。

祭囃子が聴こえてくる。
それは途切れ途切れで、電子的なノイズがたびたび混じっていた。
街の端には小さな神社が建っているが、この音はその手前、腰の曲がったある老父が住む家から鳴っているものだった。
「ああ、この街は変わってしまった!」
そんなことを言うように、老父はやり場のない寂寥感を紛らわそうと、時々ラジオカセットでそれを流すのだった。
彼は昔、この街の役所に勤めていて、或る住人の願いを聞いて少しの規則を破った結果、職を失ったのだという噂があった。
歪んだ老人が見るに堪えないと思うのは、どんなに歳を取ってもそこには一番大事な人生が存在しているという、それすら理不尽だと感じるからだった。
そのために必死になってやがて転げ落ちていくのは、滑稽ですらなく、ただ恨めしい景色だった。

アパートの郵便受けの前で、隣人に会った。
彼女は彼を部屋に連れ込んだ。話があると言った。

― ― ― ― ―

「何も。気にしなくていいから」
彼女がまず台所へ行ったのを見て、宇告はそれを止める。
実のところ、話をする気にはなれなかったのである。
彼は疲れていた。
もちろんこの日が週末だったということもあるが、それ以上に、彼の頭は整理しきれない漠然とした思考が乱立し、片づけをしなければ何にも集中できないような気がしていた。
呆けた頭で、目をなんとなく泳がせているだけであることに、彼女は恐らく気づいていない。
「時間が無いのかしら」
宇告は何も言わず、小さく頷いた。
「すぐ終わる話にできるほど、簡潔では無いのだけれど」
彼女も同じかと、宇告は思った。
もしお互いがそうであるなら、時間の無駄になるかもしれない。
美しく艶やかな髪と、控えめに膨らんだ胸を見て、少しの間、彼は欲望を感じた。

「あなた、この街の何を知ってるの?」
出し抜けに、彼女は問うた。
何か信じられないことがあるというような顔。
一瞬だけ微笑んだように見えたが、気のせいだとも思えるくらいすぐ元に戻った。
初めから、質問の意図を見失いかけた気がした。それも疲れているせいだと思った。
知っている事なんて、何も特別な事は無い。
かといって、何も分からないという自覚も無い。
「私は確かにこの街に暮らしていて、確かにその一部になっているはず。
それなのに、まるでそんな実感が無い。
あなたもそう思っているんじゃないかって、思ったの」
いつもの宇告なら、それを理解できていただろうか。
いつも通りなら、趣旨の理解と適切な解答を返すことができただろうか。
「周りにいるのは、確かに人間?
私は確かに人間であるはずだけれど、それならどうしてこの小さな街で、私はいつまでも溶け込んでいけないような気がするのかしら」
彼女は俯いた。
まるで独りぼっちよ、これじゃあ。
そう付け足して肩をすくめて見せた。

ここは宇告の部屋と同じ間取りだが、今の彼にはそれよりも一回り狭いような感じがした。
目だけを動かし、見回してみると、頭上の小さな灯りは頼りなく、この薄暗いだけの空間で彼女が話す言葉はとても不気味だった。
同時に、彼女の言うところの宇告との共通点に、彼は近づきつつあった。

虚無。

仲間の居ない街でたった一人、お互いに同じ匂いを嗅ぎつけて遭遇したような。
連想は際限なく広がっていく。
それは宇告が悪い癖だと思っていることで、また徐々に思考のキャパシティを圧迫していく。

「私だけ、もしかしたら私とあなただけが、ここでは”人間”でいられる。
この灰色の街を、私たちだけが抜け出せる。そう思わない?」

「何を考えてる?」

宇告は咄嗟にそう返した。
焦っている。
彼が抱えた形の無い心象に、相手が自由に輪郭を描いていくことを拒んだ。
せめてその前に、彼の見る彼女の姿に足りないものをたった一つ問うた。
疲労は何事でも催促し始めた。
最後の、そして最大の1ピースを知ることが出来れば、すべての理由は簡単に繋がっていくだろうと。
それさえあれば完全になる。
そんな力を持った唯一の疑問。

瞬間、彼女も戸惑ったらしかった。
次の言葉を差し止められ、調子を崩している。
そして後を諦めた様子で、一つ宇告に分かるように小さく呼吸をした。
彼女は言った。

「あなたが欲しい」

「あなたのおかげで思い出したわ。
そう、あなた何を考えているの?
これは普通の興味でもないし好意でもない。
ただ手に入れたいの。
持ち得る全てを以てして、あなたを塗り替えたい。
むしろこれは根源的で、たった一つ欠けていた一番大切な事に気づいてしまっただけかもしれない。
言ってる事、分かるよね」

何を考えていたのか。
虚無を見つめるという矛盾の中にあって、それはまるで、黒い無機物だけが視界を塞ぐように立っているおかげで真実が見えなくなっているようだった。
理解できない人間にとってはきっとそのまま変わらない。
宇告が思っていたのは、いつも自分のことだった。
偏在した真実の、そのうち一つでも多くを手に取って、名前をつけ、言葉にしながら形を得ようとした。
唯一信用するに足る人間が自分自身であるために、また隔離された他一切の人間を、その思考で打ちのめすため。

自分が欲しがったのは愛情だったのか?
そんなことをふと思った。
それは違う、きっと違うと、今まで反芻してきたが、結局今の今まで信じ切れていなかった。
だとしても、それを得たからと言って次にすることは恐らく、それすらも切り離すことだった。
それは愛情の提示だけで事足りてしまったからだ。
その続きは無くとも、彼は自分を愛する材料にすることができた。
今日のことは、そういった意味で今までと何ら変わりは無い。
切り離せば良いだけ。
無価値だと言って、笑いながらその尾を切ってしまうだけ。
苦しみが無い訳ではなかった。
けれど、もっと深刻なものがあると、彼は信じ切っていた。
信じていたかった、と言うほうが適当かもしれない。

― ― ― ― ―

「そんなことでは満たされない」
許して欲しい。
そんなことを言ったかどうか。
その前に彼女の部屋を飛び出してしまったかも分からない。
毎晩見つめている豆電球が、萎んでいく。
こんな夜は。
いつもと違う、恐ろしく鮮烈な悪夢を見た夜なんて忘れてしまいたい。
宇告は目を閉じた。
この時ばかりは、朝がやってくるのをひたすら願っていた。


―――――

『Sleep tight』

―――祭囃子が聴こえる。

 


やけに寒く感じた。
暗い部屋の隅、畳の上で宇告は蹲った。
聴こえる嗚咽は自分のもの。
ここに来て、彼は発作を起こしたように、溢れ出た言葉に頭を抱えている。
深く沈んだ夜が、彼の体温をまた下げていく。

足音が聞こえた。
けれどそこには誰も居ない。
誰も”見えない”。
彼女は隣に座り込んだらしい。

「観月」
彼女の、小さい声が聞こえた。
宇告は涙を拭った。
この落ち着かない呼吸でさえも、その声を消してしまいそうだった。

「・・・どうしたらいい?」
弱々しく、宇告は縋った。

― ― ― ― ―

「言葉が欺瞞ばかりになった」
彼はいつか過去の予想しない方に変わってしまった。
どんな声や感情も、嘘か本当か見分けがつかなくなっていった。
確かにその瞬間、彼は思ったことを口にしたし、感情を意識することも難なくできていた。
それはあの街の不条理と冷淡さ、不可能性に満ちた人間たちの話。
もう迷うことのないように、何にも囚われずに言葉を紡いだ、雨の降った日のこと。
不安だけが残り膨張した朝に、涙を流しながらペンを走らせたこと。
それらの痛みは、彼に心臓の実感を与えたし、そのままであれば生きていこうと、自己犠牲の美徳に浸かりながら誰も知らない平穏な生を全うしようと、そう決心させてくれるものだった。
回想した言葉は確かに彼自身のもので、過去に馴染んでいくのに、まるで他人の持ち物のように感じられたのは、今吐き出そうとしている言葉がまるで軽薄、凡庸であったためだった。
失望と不甲斐なさを感じながらも、現状を確認する術はこれ以外に無く、失った原点を取り戻そうともがいていた。
彼はそれからずっと、過去の輪郭を探していた。

痛みは嘘かもしれなかった。
誰もがそうするように、小さな傷を誇張しているだけではないか?
彼が最も避けたかったもの。
とても近くにあるが故に、それに溺れてしまうことのないようにと、常に気を割いていたもの。
その猜疑心だけは消えなかったけれど、疑うことに足をとられ、立ち往生している時間は無いと分かっていた。
そして今彼を苦しめるのもまた、その時間であった。

多くの感触が霧散していった。
後になって辛うじて此処に生き残っていた言葉を、探し、繋いで、それだけを頼りにしていた。
全て彼が彼自身を救うための行為であり、何が苦しく何が悪いのかも分からないまま涙を流していたあの彼に指針を与えるためだった。
そしてその言葉も、見失ってしまったのだ。
『どうしたらいい?』
そんな問いかけを、果てが無いくらいに続けたとしても、その度に、誰も其処に居ないということに気づいた。
人間はどこにでもいた。
けれど、彼の信ずるところの人間は、まるで一人もいなかったように見えた。

本当に自分だけだと、そう頑なに信じた。
信じた自分さえも、今は居ない。

「過去しかないと言うけれど、むしろそれは意味のあることだと思うよ」

 

 

 

 

 

 

of Sadness

近頃、PCに溜まった写真の整理をしている。一眼レフで撮ったものは、ひとつの写真につきJPEGとRAWという2種類のファイルが存在していて、RAW形式のデータは、同じJPEG写真の2倍以上のデータ量がある。それがだいぶPCの容量を圧迫していたらしい。数打ちゃ当たるの精神でカメラを使うので、微妙な写真がとても多い。いまは余分なファイルを消しながら、良い写真があればインスタグラムにあげたりしている(ので、もしよければ見てください)。いろんな場所に行ったことや、その傍には時々友人がいたことなんかを思い出す。

 

残しておいても仕方のないような雑な写真(ほとんどがそう)をひたすら消していると時々、ある場所で撮った写真がすべて消されてしまいそうになる。単純に「この場所を訪れた」というメモ程度に撮っているから、構図も雰囲気もまったく意識していない写真。それでも、もしすべてを消してしまったら、自分がそこに行ったのだということ自体、いつか完全に忘れて思い出せなくなってしまいそうな気がする。そういうわけで、何枚かは選別して残すようにしている。
一度で数十GBのデータを削減できるので、空き容量が日に日に増えていくのを見ていて、うれしくなる(そのあと大量に買った音楽で少し増える)

 

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たまに、少し前にあったことを思い出す。どうして人を信じていたのか、そもそもちゃんと信頼なんてしていなかったのか、今では分からないけど。思い返している。酷いことをされて泣いたり、酷いことをされたという話を聞いて泣いたりしたこと。今はもう何故か涙が枯れちゃったこと。ある瞬間から、言葉だけじゃ安心できなくなったのは確かだと思う。言葉はぜんぶ嘘かも。言葉は限界で、それに代わるのは態度と時間だと分かったし、それが手に入らないのも知っている。あるときからイノセンスを失くした。初期ART-SCHOOLの歌詞を眺めながら一人で納得していた。

 

怖いものばかりだと思う。自分の周りに、未来に、気の休まらない長い時間があるのが分かる。怖がらないで、怯えないで、安心して、なんて誰かに言われたくはない。だって世界は実際とても怖い。だから怖いままでいいし、死ぬまで怯えていたっていいと思う。本当に欲しいのは、となりでいっしょに怖がってくれる人なんだろうから。それはとっても幸せなことだと思う。