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”考えろ”なんて言わないから

学校という場所は、結局は大人の都合で動いてる。

 

大人にとって不都合な事実が見つかれば隠蔽されるし、

本当に、本当に生徒の未来を思って、教師をやっている人間なんているんだろうか。

教師の給料無しにしろって話じゃないけど。

 

人間としての汚い部分をすべて消してでもいないと、綺麗な理由100%で教師なんてできやない。

 

どこかしら裏がある。

 

裏、と言っても、汚い部分も綺麗な部分も含めて人間だから、本当は表も裏も無い。

 

意図的に隠している部分を裏ってことにする。

 

 

自分が小学生の時、先生は偉い人だった。

試験を受けて、教師になるんだから、きっと素晴らしい人間なんだろうと思っていた。

多分、その認識は正しいもので、これからもずっとそう考えるべきだったんだろうけど。

 

中学生になってから、あまり先生を尊敬できなくなった。

「先生」ではなく「ただの一人の人間」と考えるようになったからだった。

 

教師の、人間的な部分を見ていると、結局先生というのは神様でも偉い人でもなく、ただの人間だった。

 

ただ、周りの大人よりもちょっと頭がいいってだけで。

 

「頭の良さ」というものは、単なる「学力」と「人間の道徳的な部分」に分けられるものであると思っている。

 

自分よりもテストの点数が悪い人間でも、自分よりも人間的にしっかりしていて、優しくて、頼りになる人がいるし、

 

逆に、自分よりテストの成績が良くても、人間的に屑みたいな人もいる。

 

なのに、テストの点数が良いだけで、自分には人間的価値があると勘違いする人間がほどんどである。

 

昔から、人間の良し悪しとか、正誤とかを測るものさしが、通信簿に載せられた成績しか無かったからなんだろうな、と。

 

学生って、それまで受けてきた教育の影響を、なんか別のところで大きく受けてしまっているような気がして。

 

 

学校では勉強をする。

 

問題を解く。

 

 

その過程で、問題の答えが正しいのか、間違っているのか、判断する場面が数え切れないほどあったし、これからもそれは変わらないだろう。

 

そして、なぜか、人間を見る目までもが、正誤に囚われているような気がする。

 

正誤、または善悪。

 

特に自分を正当化したがる中高生なんかは、正誤善悪の判断の中で、自分を正であり善とする。

 

すると、自分とは違う人間を誤であり悪と決めつける。

その結果がイジメなんじゃないかと。

 

 

今も昔もイジメは存在したし、昔の子供が今の大人なわけだから、そりゃあ、人間的に道徳が足りない教師だってたくさんいるよなーと、そういう考えに至った訳であります。

 

オチは無い。おしまい。