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”考えろ”なんて言わないから

全てが無い

社会とか、世間とか、曖昧で不確かではあるけれど、僕等が何か考えたり書いたりするときに毎日意識せざるを得ないような存在であるそれらは、ただひたすら正しいことを考えて、悩んで、それを叫び続けようと決意した人間に対して、極端に冷たくて、誰もこちらを見てくれないような気になる。

 

何もかもが否定しきれなくて、肯定すらできないってことに気づいて、それを理由に先生の言うことを聞こうとしなかった駄目な人間への罰。
自業自得。

何かを間違ってしまうのが嫌で、すこし我侭に自尊心を保っていたくて、でも言いたいことも言えずに、可能性すら口にできずにいつまでも踏みとどまってしまった弱い人間。

 


誰かの倫理観で作られたモデルをもとに、目指すべき点と、社会を回すために許容された「人生の道は無限大」という広告がまず決められていて、選択肢や生き方、許される性格の幅を広げてやったと見せかけ、「それにも当て嵌まれない人間は不良品だ」と堂々と宣言できる環境ができた。

 

誰かの陰謀じゃない。
組織や会社や政治家でも無い。
風潮と言うのは誰かが作り出すより、もっと自然に、すべての人間の無意識で出来上がる、ような気がする。

 

そういうわけで、気づけばなんとなく『正しい人間の像』に惑わされながら生きていて、疑いつつも何も言えない人間が、愚かしく健気な、正義を唱えるヒーローの作る世界からはみ出していく。


話の通じない人間には早いうちに見切りをつけて、お互いに離れる努力をするべきなのは、思考の前提は揺れ動かない、内面で一番確固たるもの(意識外にあるもの)で、話が分からないならそれは一生のもので、分かるとすればそれは別人でなきゃいけないから。

 

相性が悪いというのはそういうことだし、嫌いにならないにしても苦手意識は持っていた方が良いのかも。
まあ極端になれば逃げ場も無いんでしょうけれどね。
逃げ場を失ってどうしようもなくなった結果を見ても否定する気が無いのはいつもの通り。


僕の考えていることと、僕の尊敬する誰かの考えてることがまるっきり逆になっていたりして、だいぶ自信が無くなったりするけど、どちらも正しいって思えばいいよね。
否定したくないし、その方に慈悲があるなら僕自身の否定もされたくない。
僕が悲しくなってしまうのは、この考えが正しいとしたら、至る所にいる僕の敬愛する人格者までもが否定されてしまうから。

だから、常に「どちらでもいい」「どちらでもない」ってことも意識していたいし、それで何か許せるものが増えたらいいなって願ってる。

 

例え相手が偉い教授でも、伝説級の人格者でも、大切な大切な誰かでも、僕は「それだけが全てじゃない」って言い聞かせるし、だから正論を認めつつ服従なんてさせられない。

 

「正しい人間」というただ一つの理想像に、これ以上悪魔の囁きみたいな言葉を感じ取りたくないからこそです。