ノージア

激しい感情というのは自分にとって割と珍しいもので、それを長く引きずっているから、もうだいぶ疲れてしまっている。
それら全てを無力感の箱に詰めて、思考停止ではないやり方でどうにかする。
考え始めたら勝ち目はないものだと思っていたけど、思考の一部だけを立ち入り禁止にするなんて都合の良いことは出来ないようで、もう頭が全体的に停滞している。
痛みにも慣れてきたころに、またいろいろ考え始めないと。
それがつらくても、そうしなくちゃいけない気がしてる。

 

自分の手には負えない憎悪とか悲痛とか、そういうもので逃げ場のないところに追い込まれる。
誰も助けられない、そしてそれが当たり前で、悪く思ったりしない。
「助けてあげられなくてごめんなさい」と言われるだけの結末を知っている。
これじゃ誰も得をしない。誰のことも頼れていない。
自分が救いようの無い現状にあることを必死になって説明することで、助けてくれない相手が悪いわけではないってことを証明できる。
それを言っちゃお終いだとか、身も蓋もないことを言うなとか、そういうこと言うのって結局はただの怠慢じゃないのか。
不可能なんてものが存在する可能性を認めない。
いつも、助けてあげる方法がもしかしたら何処かにあったかもしれない、と言いたそうな顔をする。
人とか、信用とか、そういう大切なものを亡くした後でさえ、そうやっている。
「助けてあげられなくてごめんなさい」
自分を責める、それは自分を慰めるのと同じことで、そのための理由をつけるために。
「そんなの最初から救えなかったに決まっている」
そう言う僕のことは聞いてもらえない。

 

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みた夢の話はあまりおもしろくない。
凄惨な、あるいは不気味な夢とかは、人間ならみんな同じくらいみているし、それを語ってみることで深層の暗い所に触れたような気分にはなれない。
まるで狂気を孕んだような振りをするときに、よく夢の話はされる。
吐き気がする恐ろしい夢も、示唆的な夢も、たぶん自分だけの価値なんて無い。
昼寝してばかりでも、みる夢みる夢がつまらなくて、そういうことを考える。