ボツ原稿

2016年の秋から冬にかけて、ゆっくり組み立てていた原稿。

結局収拾がつかなくなって、完結もされずボツになった。

それ以降、今までに書いた2つの短編の執筆中、ボツ原稿の中から良い部分を抜き取って使えるかもしれないと思って残していたんだけれど、使う機会が無かった。

きっとここにある言葉はここにしかいられなくて、別のところで使うために剥がし取ろうとすれば痛みも伴うわけで。また何か書くときは、その時にしか降りてこない言葉を使えばいい。

自分では納得のいかない部分も多いけど、良いところもあると思ったので、そのボツ原稿をここにあげておこうと思った次第です。

2部構成になる予定だったので、けっこう長いうえに、途中部分までしか無いけれど。

 

―――――

『』

夕日が山脈に沈もうとしていた。
橙色の大きな光源は、目の前にある送電塔の、その鉄骨を簡単に侵食していく。
朧げな光景から離れることは難しく、夜の幕が降りてくるのはもう何度も目にしたことがあった。
「でも君は、戻ってこないんでしょう」
制服の少女は小さな声で言った。
綺麗な細い糸のようなその声は、秋の、荒野のように禿げてしまった縄手で風に吹かれれば、容易に切れてしまいそうだ。
夏が終わったことを感じさせるこの冷たい風は、つい最近始まったものだった。
その風に遮られると、彼女の声は、隣にいる少年にはほとんど聞こえなくなってしまう。
「しばらくはね」
間を置いて、少年はようやく口を開いた。
「心配している?」少年は問う。
「いつも通り」
あなたのことが心配だ、というのが彼女の口癖だった。
彼は分かっていたし、彼もそれは同じだと言った。
彼女は笑わない。
口は何かを言おうとして、躊躇い、諦めた。
時々相手を見やっては、行き場の無い目を見つめるだけ。
それを何度か繰り返した後、少年はもう帰ろうかと言った。
一緒に居ることだけが、今は一番苦しかった。

何処にも予定は立っていないのに、それでも二人は、もうじき離れ離れになるような気がしていた。

「―――――。」

彼女は、ずっと前から準備していた、ただその一言を彼に当てつけた。
彼は何も言えなかった。

轟音。遠くに小さく見える旅客機が見下ろしている。
廃れた田園だけが広がる中、二人はたった独りになって目を閉じていた。

忘れてしまった夜のこと。

― ― ― ― ―

夢の終幕。
現実の確認以前にけたたましくアラームが鳴る。
通常の朝と同じように、半ばパニックになりながら体を起こし、それを停止させる。
端末を床に叩きつけたくなる程に朝を恐れているのも、毎度のことだ。
とても長く寝ていたような気がする。

しばらく続く混乱の中で、彼は送電塔の夢と、同時に介入してきた彼女の言葉や思考に怯え、その声や口や目が、白く霞むもやの中で浮かんでは消えていくような幻覚を見ていた。
彼女の思った事、そして彼が思ったことはついにその通りになったし、今では思い出すきっかけが無いほどに距離や感覚の面で遠く離れ過ぎてしまった。
それなのに、彼女は彼を忘れてはいないと訴えるように、声を聞かせてくることがある。
時にはサブリミナルな慟哭も彼の脳髄を狂わして、その空恐ろしさから彼はまったく抜け殻のようになってしまうこともあった。
忘れようの無い罪と、行き場の無い悲痛とが行き先を縛られ、収斂した先端がきっと此処なのだと彼は考え、気づけばこの現状に慣れ切ってしまっていた。

玄関の薄いドアを開くと、強い風が一瞬で部屋に滑り込んでくる。
外に出ると急いでそれを閉め、鍵をかけた。
アパートの2階、その狭い通路からは正面の高層マンションのおかげで何も見えなかった。
階段の手前にある郵便受けでは、どこの箱にも新聞紙が無理矢理突っ込まれている。
彼のところにも同様に、2日分の新聞。
『505 宇告』
彼はそれを開けずに通り過ぎていった。

― ― ― ― ―

東西に伸びる大通りは、自動車や黒いスーツで溢れている。
おおよそ一般の出勤時刻に、彼も―――宇告観月というこの青年も、朝日に背を向けて小さな事務所への道を歩いている。
1年程前に街へ来てからたった一つ幸運だったことと言えば、勤め先の所長がまともな人間であったことくらいであった。
意味の無いものだと分かっていても、ただ楽なので、職場については特に不満を持っていない。
同じようにこの街全体が、まったく無害だった。
通常と変わらず暗い顔をして歩く人たちは、お互いに気を遣わないだけであって、稀に少々気違いじみた浮浪者が騒ぎを起こしても、関与しない者はまったく関与しないその態度を崩さなかった。

未明の路上に撒かれた吐瀉物の処理は早い。
殺人者の拘束と、その件に関する新聞記事、またある職場がその欠員を補充することの、どれもが簡潔に済まされていた。
つまりは、それらがこの街においては習慣化していたということであり、宇告はそれを眺めるだけの習慣を持っている。
人々は決して部外者などでは無いが、まるで他の街との境界線を知らないかのように無頓着な様子を演じているという人間は―――彼もそれに違わないが―――人口の大部分を占めていた。
この小さな町で、それはまるで遠い場所での出来事のように知らされ、処理された。

強風は絶えず彼を押し返そうとし、彼の耳や頬は激しく冷やされ、痛んでいる。
同じように、それらに抗って歩く影がちらほら見受けられた。
彼はある細い路地へと逃げるように入っていった。

狭い路地の中で密かに営業している雑貨屋の手前。
ダーツ盤に向かって小さなナイフを投げる遊びをしている少年たちは、いつも通りそこにいて、いつも通りそれをしている。
壁に掛けられた円盤は、中心に近づくにつれてその深い傷跡も増えていく。
連中がほぼ毎日こうしているということを、街の人間なら大抵は知っていた。
そして今、宇告が連中を眺めていたとき、ある一人の順番、彼は自分の爪先にナイフを突き刺した。
単純に、投擲が下手だっただけのことであった。
苦悶の表情はすぐ下を向き、蹲ってしまう。
連中は指を差してその鮮血とうめき声を笑い、かわいそうな彼は喉に擦りつけるようなしゃがれた声で喘いでいる。
酷く純粋で容赦のない苦痛がこの喜劇的な空気に埋もれているということは、実に人間的で仕方のないことだった。
連中の一人が宇告に気づいて睨みつけたので、彼はまた逃げるようにその場を去った。

空は灰色で、今日は多分それがずっと続くようだった。
背の低い住宅街と電柱。
グレーを背景に黒く沈んだところに、また黒いカラスがとまった。
うごめく影は数を増していく。

―――それらは繋がって、増殖して、空を覆うほどに大きくなる。
―――気づけば一面が深い黒で満たされた。
―――どこまで腕を伸ばし入れても、決して底に触れられないよう―――――

 

ただ暗いだけの夕方、宇告は事務所からの帰り道を歩いていた。
特別変わったことも無く、今日の大部分が終わったように思う。
広い間隔で続く街灯を線で繋ぐように目を移す、遊びとも言えない習慣を今日もしていた。
このくらいの時刻から、街の中心部は騒がしくなる。
彼はそれを避けて、ひときわ光の無いところを通って行った。

祭囃子が聴こえてくる。
それは途切れ途切れで、電子的なノイズがたびたび混じっていた。
街の端には小さな神社が建っているが、この音はその手前、腰の曲がったある老父が住む家から鳴っているものだった。
「ああ、この街は変わってしまった!」
そんなことを言うように、老父はやり場のない寂寥感を紛らわそうと、時々ラジオカセットでそれを流すのだった。
彼は昔、この街の役所に勤めていて、或る住人の願いを聞いて少しの規則を破った結果、職を失ったのだという噂があった。
歪んだ老人が見るに堪えないと思うのは、どんなに歳を取ってもそこには一番大事な人生が存在しているという、それすら理不尽だと感じるからだった。
そのために必死になってやがて転げ落ちていくのは、滑稽ですらなく、ただ恨めしい景色だった。

アパートの郵便受けの前で、隣人に会った。
彼女は彼を部屋に連れ込んだ。話があると言った。

― ― ― ― ―

「何も。気にしなくていいから」
彼女がまず台所へ行ったのを見て、宇告はそれを止める。
実のところ、話をする気にはなれなかったのである。
彼は疲れていた。
もちろんこの日が週末だったということもあるが、それ以上に、彼の頭は整理しきれない漠然とした思考が乱立し、片づけをしなければ何にも集中できないような気がしていた。
呆けた頭で、目をなんとなく泳がせているだけであることに、彼女は恐らく気づいていない。
「時間が無いのかしら」
宇告は何も言わず、小さく頷いた。
「すぐ終わる話にできるほど、簡潔では無いのだけれど」
彼女も同じかと、宇告は思った。
もしお互いがそうであるなら、時間の無駄になるかもしれない。
美しく艶やかな髪と、控えめに膨らんだ胸を見て、少しの間、彼は欲望を感じた。

「あなた、この街の何を知ってるの?」
出し抜けに、彼女は問うた。
何か信じられないことがあるというような顔。
一瞬だけ微笑んだように見えたが、気のせいだとも思えるくらいすぐ元に戻った。
初めから、質問の意図を見失いかけた気がした。それも疲れているせいだと思った。
知っている事なんて、何も特別な事は無い。
かといって、何も分からないという自覚も無い。
「私は確かにこの街に暮らしていて、確かにその一部になっているはず。
それなのに、まるでそんな実感が無い。
あなたもそう思っているんじゃないかって、思ったの」
いつもの宇告なら、それを理解できていただろうか。
いつも通りなら、趣旨の理解と適切な解答を返すことができただろうか。
「周りにいるのは、確かに人間?
私は確かに人間であるはずだけれど、それならどうしてこの小さな街で、私はいつまでも溶け込んでいけないような気がするのかしら」
彼女は俯いた。
まるで独りぼっちよ、これじゃあ。
そう付け足して肩をすくめて見せた。

ここは宇告の部屋と同じ間取りだが、今の彼にはそれよりも一回り狭いような感じがした。
目だけを動かし、見回してみると、頭上の小さな灯りは頼りなく、この薄暗いだけの空間で彼女が話す言葉はとても不気味だった。
同時に、彼女の言うところの宇告との共通点に、彼は近づきつつあった。

虚無。

仲間の居ない街でたった一人、お互いに同じ匂いを嗅ぎつけて遭遇したような。
連想は際限なく広がっていく。
それは宇告が悪い癖だと思っていることで、また徐々に思考のキャパシティを圧迫していく。

「私だけ、もしかしたら私とあなただけが、ここでは”人間”でいられる。
この灰色の街を、私たちだけが抜け出せる。そう思わない?」

「何を考えてる?」

宇告は咄嗟にそう返した。
焦っている。
彼が抱えた形の無い心象に、相手が自由に輪郭を描いていくことを拒んだ。
せめてその前に、彼の見る彼女の姿に足りないものをたった一つ問うた。
疲労は何事でも催促し始めた。
最後の、そして最大の1ピースを知ることが出来れば、すべての理由は簡単に繋がっていくだろうと。
それさえあれば完全になる。
そんな力を持った唯一の疑問。

瞬間、彼女も戸惑ったらしかった。
次の言葉を差し止められ、調子を崩している。
そして後を諦めた様子で、一つ宇告に分かるように小さく呼吸をした。
彼女は言った。

「あなたが欲しい」

「あなたのおかげで思い出したわ。
そう、あなた何を考えているの?
これは普通の興味でもないし好意でもない。
ただ手に入れたいの。
持ち得る全てを以てして、あなたを塗り替えたい。
むしろこれは根源的で、たった一つ欠けていた一番大切な事に気づいてしまっただけかもしれない。
言ってる事、分かるよね」

何を考えていたのか。
虚無を見つめるという矛盾の中にあって、それはまるで、黒い無機物だけが視界を塞ぐように立っているおかげで真実が見えなくなっているようだった。
理解できない人間にとってはきっとそのまま変わらない。
宇告が思っていたのは、いつも自分のことだった。
偏在した真実の、そのうち一つでも多くを手に取って、名前をつけ、言葉にしながら形を得ようとした。
唯一信用するに足る人間が自分自身であるために、また隔離された他一切の人間を、その思考で打ちのめすため。

自分が欲しがったのは愛情だったのか?
そんなことをふと思った。
それは違う、きっと違うと、今まで反芻してきたが、結局今の今まで信じ切れていなかった。
だとしても、それを得たからと言って次にすることは恐らく、それすらも切り離すことだった。
それは愛情の提示だけで事足りてしまったからだ。
その続きは無くとも、彼は自分を愛する材料にすることができた。
今日のことは、そういった意味で今までと何ら変わりは無い。
切り離せば良いだけ。
無価値だと言って、笑いながらその尾を切ってしまうだけ。
苦しみが無い訳ではなかった。
けれど、もっと深刻なものがあると、彼は信じ切っていた。
信じていたかった、と言うほうが適当かもしれない。

― ― ― ― ―

「そんなことでは満たされない」
許して欲しい。
そんなことを言ったかどうか。
その前に彼女の部屋を飛び出してしまったかも分からない。
毎晩見つめている豆電球が、萎んでいく。
こんな夜は。
いつもと違う、恐ろしく鮮烈な悪夢を見た夜なんて忘れてしまいたい。
宇告は目を閉じた。
この時ばかりは、朝がやってくるのをひたすら願っていた。


―――――

『Sleep tight』

―――祭囃子が聴こえる。

 


やけに寒く感じた。
暗い部屋の隅、畳の上で宇告は蹲った。
聴こえる嗚咽は自分のもの。
ここに来て、彼は発作を起こしたように、溢れ出た言葉に頭を抱えている。
深く沈んだ夜が、彼の体温をまた下げていく。

足音が聞こえた。
けれどそこには誰も居ない。
誰も”見えない”。
彼女は隣に座り込んだらしい。

「観月」
彼女の、小さい声が聞こえた。
宇告は涙を拭った。
この落ち着かない呼吸でさえも、その声を消してしまいそうだった。

「・・・どうしたらいい?」
弱々しく、宇告は縋った。

― ― ― ― ―

「言葉が欺瞞ばかりになった」
彼はいつか過去の予想しない方に変わってしまった。
どんな声や感情も、嘘か本当か見分けがつかなくなっていった。
確かにその瞬間、彼は思ったことを口にしたし、感情を意識することも難なくできていた。
それはあの街の不条理と冷淡さ、不可能性に満ちた人間たちの話。
もう迷うことのないように、何にも囚われずに言葉を紡いだ、雨の降った日のこと。
不安だけが残り膨張した朝に、涙を流しながらペンを走らせたこと。
それらの痛みは、彼に心臓の実感を与えたし、そのままであれば生きていこうと、自己犠牲の美徳に浸かりながら誰も知らない平穏な生を全うしようと、そう決心させてくれるものだった。
回想した言葉は確かに彼自身のもので、過去に馴染んでいくのに、まるで他人の持ち物のように感じられたのは、今吐き出そうとしている言葉がまるで軽薄、凡庸であったためだった。
失望と不甲斐なさを感じながらも、現状を確認する術はこれ以外に無く、失った原点を取り戻そうともがいていた。
彼はそれからずっと、過去の輪郭を探していた。

痛みは嘘かもしれなかった。
誰もがそうするように、小さな傷を誇張しているだけではないか?
彼が最も避けたかったもの。
とても近くにあるが故に、それに溺れてしまうことのないようにと、常に気を割いていたもの。
その猜疑心だけは消えなかったけれど、疑うことに足をとられ、立ち往生している時間は無いと分かっていた。
そして今彼を苦しめるのもまた、その時間であった。

多くの感触が霧散していった。
後になって辛うじて此処に生き残っていた言葉を、探し、繋いで、それだけを頼りにしていた。
全て彼が彼自身を救うための行為であり、何が苦しく何が悪いのかも分からないまま涙を流していたあの彼に指針を与えるためだった。
そしてその言葉も、見失ってしまったのだ。
『どうしたらいい?』
そんな問いかけを、果てが無いくらいに続けたとしても、その度に、誰も其処に居ないということに気づいた。
人間はどこにでもいた。
けれど、彼の信ずるところの人間は、まるで一人もいなかったように見えた。

本当に自分だけだと、そう頑なに信じた。
信じた自分さえも、今は居ない。

「過去しかないと言うけれど、むしろそれは意味のあることだと思うよ」