"do you love me"

 当たり前だけど、あるとき「それを忘れていたな」と気づく瞬間は、その内容を思い出す瞬間と同時であって、忘れるという現象(行為ではない)は、到底自分の手には負えない。気づいた時にはすべて終わっているから。逆に、忘れよう忘れようと念じてみたところで、却ってそれは脳裏により深く刻まれてしまう。

 

 自分が尊敬している、ある二人の音楽家が、何処かで、どちらも似たようなことを書き記していたなあとぼんやり覚えていて、その文章を探してみた。めちゃくちゃ探した。すると、ひとつはブログの中に。もうひとつは、CDについてた冊子の中に。「人間は、忘れることで生きていける。」そんな感じのことを言っていた。似たような言葉は、他の何処かでも聞いたかもしれない。というのは、これを聞くたびに自分は、あまりうまく説明できないけど、「本当にそうだろうか」というような疑問を浮かべては、いつも未解決のまま仕舞いこんでいたから。もっと言えば、人間そんなもんだろうと自覚しながらも、それでいいんだろうか? という感じ。

 

 忘れてしまえば楽になれる。しんどいこと、思い出したくないこと、裏切られた、捨てられたこと。そうやって悪意で呼び名を付けたくなるようなたくさんの記憶や、悪い癖を。忘れたらどんなに楽だろう。こうやって下手な嫌味を並べさせる意識は、(これはつまり「忘れる」という行為に対する嫌悪感だから)、同じように、そんなことを忘れたくないと願うよう仕向けてくる。だって忘れたら、何か大事な物まで忘れてしまうような気がする。つらい思い出を大切にしまって、それはいつか自分や誰かの助けになると信じて疑わない。時に無神経な精神的マッチョを遠ざけながら、臆病者のメンタリティーを保持することで、同じ種類の人間を支えられると思っている。明確な憎悪や恐怖、不安、自分に対する不甲斐なさのような、たくさんの無駄で重い荷物を背負い続けた結果生まれたこの弱さは、いつか誰かに「あなたは優しいね」と勘違いすらさせたあの弱さだから。

 

 とはいったものの、忘れてしまうことに抗えないのも知っている。今だってもう、昔信じていたいろんなことを忘れたような気がするし、その頃の自分に見せたら怒られそうなくらい、いくつかの信念を知らないうちに捨ててしまったのかもしれない。だから、今後の保証だって、自分には出来ない(他人にできる訳も無いけれど)。いま抱えているものをいつか忘れてしまうかも知れない。誰かへの好意だって同じ。「永遠に愛し続けますか」という問いは、「たぶん……」と付け足さずには了承できなかった。これはとても愚かで不誠実だと思う。じゃあ今度から、自信が無くても永遠を誓って見せようか。嘘の無いように保険をかけても、あるいは未来をはっきりと誓ってみても、誰かを裏切るような結果(相手がそう感じ取るならそれはいつでもそういう結果だ)になったとき、相手の感じる痛みにたいした差は無いのだから。