大人になれない

「変わっちゃったね」と言うのが嫌で、遠回しにまた相手の気に障るようなことを言って、人間関係をダメにしてしまったことがある。その言葉は、まるで相手に何かを期待していたみたいじゃないか。

 

「この人変わっちゃったんだな」というのは、所有欲からくる言葉だと思う。確かに自分は相手に期待をしていた。かつて自分に笑いかけた相手そのものがずっとそのままでいてくれることを期待した。誰かを自分の物にできるわけがないのに。人が変わっていくのは止められない。変わってほしくないと願ってはいるけど、気持ち悪いので、それを絶対言いたくない。

 

高校を卒業したタイミングで、仲の良かった彼ら彼女らは、日本各地に散っていった。片田舎の出身なので、特に都市圏や中枢都市に出ていった女の子なんかは、今頃立派なクソビッチになって想像もできない変貌を遂げているのだろうという偏見がある(自分だけです)。そうでなくとも、みんな自分の知っている彼らではもはやないと思う。「変わっちゃったんだな」と思うのが怖いので、もう二度とその友人たちには会わないと思う。自分を支えてくれたり、自分が支えたこともあっただろうし、感謝しなきゃいけないことはたくさんあって、それらは記憶の中に、大事にしまってある。もう会いたくない。会えない。みんな元気かな。

 

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卒業という一大イベントを経て、僕らは見慣れた学校を強制的に追い出される。自分はその度に友人関係をすべて失って、春、別の場所で新しく作り直すということをやっていた。そのせいかも分からないけど、大事な友達や友達以上の人を、そういうピリオドの向こう側に連れていきたいと思ってしまうらしい。高校3年の同じクラスで、卒業式の直後に仲良くなった女の子がいた。大学生になってからしばらくの間、遠い距離にいる二人は電波で意思疎通を図ったり、たまに会って遊んだりしたのだけど、ある人種にとっては当たり前のようなそんなことを、自分はいつも待ち望んでいたらしかった。今ではその関係も静かになったけれど、こうなることは最初から分かっていたし、思い出を壊さないまま終わることができたので、忘れることはないと思う。今となっては胸の内で感謝する以外に何もできないな。なんだかそういうことばっかりな気がする。

 

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感謝という言葉で、自分の醜い行為や想像を無かったことに、あるいは正当化してしまうことに頼り切っている自分に気づいてます。最低。
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逆に、自分は自分のままでいることに固執しているような気がする。いつも後ろを振り返って、昨日までの自分がどんなだったか確かめようとしている。でも、ある人間を一言、二言でまとめるなんてことはできないので、自分がどうだったかなんてよく分からない。なるようにしかならないのだと諦めつつも、失ったものを気にかける。かつては一緒に引き連れていた自分の一要素が、気づいた時には分岐点を過ぎて遠いところにいってしまっている。そうやって失くしたものは時に取り戻せたりするけど、それができないときもある。忘れてしまうこと。前にもこんなこと書きました。

 

自分は未熟者らしい。かつての友人に会いたくないのは、まるで成長していない自分を見られるのが怖いからでもある。みんな僕の知らない場所でちゃんと大人になっていくのに、僕は何も変わっていない。変わりたくないと宣いながらただの怠惰に浸かって、それを手軽なペーソスや自己憐憫で誤魔化してきた。文化的な生活だなんて言ってるけど現状はそんな感傷的な書物や音楽や映画が欲しいだけなんだろう。そんな気がする。