肺呼吸

 「長い間、良くない夢を見ていました。すぐに切らしてしまう薬の様に、後先が頼りないほんの少しの楽しみで誤魔化しながらも、その恐怖や不安は積み上がっていったような気がします。生まれて来なければ良かった、なんて思ってはいません。生まれてから死ぬまで、打ち勝つべきものに負けず、真っ当に生きていけたなら、すべての生は決して間違いではないと信じています。それを生んだ両親にだって、もちろん間違いは無かった。きっとどこかで判断を間違ったのだと、たまに考えていたことです。もしたった一度きりの間違いの後に、すべての決断を正しく済ませていたなら、それでも幸せな道に残っていられたのでしょうか。一度道を間違えば、曲がり角の法則を正しく記憶していても、きっと辿り着けないというのが、自分自身にも当てはまるとしたら、こうなることはやっぱり決まっていたのかも、なんて思います。家庭も友人も、人間関係に間違いは見当たらなかった。誰のせいにしようという気も無いし、実際そんなことはあり得ないのだから、私はただ、悪い夢を見ていたんだと、別の場所で笑って見せることができると思います。そんな目覚めの安心感と同じものを確かに感じられるような気がしています。それも、すべてが終わった後の話です――」

 

―――

 そういう空想で目の前の現実を後回しにすることも許されない。許さないのは、自分。他のことを考える暇もなく、ひとつの不安に対峙しては打ちのめされている。「音楽を聴いていなければつらい」とよく宣うものの、実際呼吸を浅くしているのは外せないイヤホンなのではないかと疑い始めている。どんな音楽にも不安が染み込んでしまう。そして気持ち悪くなる。時計じかけのオレンジみたいに。生活の中にはいろんな強迫観念が散らばっている。ウォークマン、水道、戸締り、手洗い。日光にあたるといいとよく聞くので、なるべく外に出るようにしているが、こんなことに意味はなく、相変わらず不安は不安のままだと気づいてからは、引きこもっても外に出ても同じように息が出来なくなった。

 

 自死の遺族や交友関係にあった人々の言葉をスクロールさせながら、家族の泣き声を想像し自分まで泣いてしまう。ひとつの死は周囲に鬱や自殺願望を撒き散らすのだと、なんとなく知ってはいたけど再三はっきり突きつけられる。「あなたの命はあなただけのものではないんだよ」これが救いとなるか、突き落とす最後の一手となるか。人によるのだろうということにして、少しの怒りを落ち着ける。

 

 そろそろぶっ壊れてきている。良好だと勘違いしてい様々な関係は、ある一点でボロが出て以降、まったく信用できなくなってしまった。そのあとに取り繕うように見せられた笑顔もからかう言葉も、全部嘘なのだろうと分かってしまう。失敗を恐れるのは未来のためだ。この悪い記憶は、今は無くても、1週間後には新しい不安になって自分を苦しめるだろう。そんな記憶、記録を作ってしまった。何てことだ。

 

 冬に弱いのはきっと季節性のアレのせいだろうと、認めたところで何も変わらないから保留状態を続けている。そうして、日に日に頭が悪くなっていく。集中力も判断力も信じられないくらい駄目になってる。もう馬鹿になってしまった。ここから立ち直れるだろうか。無理だろうなと言う気がしてならない。最近は、睡眠と夢だけが救いだと思う。