鈍い縁

 今月こそはちゃんと外の空気を吸って、写真を撮ったり田んぼを眺めたりして過ごしたいなと思っていたのに、いざ一人でそこそこ自由な生活に投げ込まれると、引きこもってディスプレイと向かい合う時間ばかりになってしまう。あとから後悔するのだから、いま面倒でも重い腰を上げなくちゃならない、と分かっているのに。明日こそ、次こそは。と心に決めたところで明日の天気を確認していないことに気づく。この数秒後、青い傘マークが目に入ったなら、わたしはこの気持ちをどうすればいいのでしょう。

 

 

 このあいだひとつの小説を投稿した。誰が、何人くらい、どんな気持ちで読んでくれたのか、なんてことが全然分からないから、読み手の反応を見て手ごたえを得る、ということが(毎回そうだけど)できない。だから自分で納得できるものを、自分を救えるものを、あるいは祈るようなことばを、、というふうにしか目標を設定できない。それで構わないけど、感想が聞けたら聞けたでとても喜んでしまうのだろう。ただまあ、毎度のことなのであまり気にしないようにします。

 

 カミュの『転落』という短編小説が好きで、読んだ回数なら『異邦人』よりずっと多いかもしれない。日常的に頭に浮かんだ考えに対して既視感をおぼえると、たいていはこのレシで既に読んだことだったりする。いつ何を書いても土台には結局『転落』がある気がする。ここでのクラマンスの語り口が好きで、3年前に自分が書いた『4am39floor』ではその文体をそっくりそのまま真似している。言ってることも所々重なっている(その深さは当然、雲泥の差ですが)。さきほどその『4am~』を読み直していたらなんだか気持ちが悪くなって、これは見るに堪えない文章かもしれないと思って画面を閉じてしまった。いまでも自分の書いたものはけっこう気に入っているのだけど、御本家のことを好きになればなるほど真似事の産物は苦手になってしまうということがあってもおかしくはないかな、とも思いました。過去の作品を恥ずかしいと感じたら成長の証明、というのは一理あると思うけれども。

 

 このあいだ公開しました
 『よすがの窓』(2019.08.31 星空文庫)

slib.net

  
 ART-SCHOOLの楽曲が時折そうするのを見習って、有名な映画や小説、思想系の用語の引用がここにはたくさん詰め込まれている。それらを解説する(すこし偉そうな言い方だ)ブログ記事を書こうとも思ったのだけど、なんとなくあとで後悔するような気がしたので思いとどまりました。サンプリングやオマージュが確信犯として機能するためには、作品のおかれる環境がとっても大切なのだと思います。

 

 そんな試みによってこの短い小説に意味的な厚みが少しでも加えられていたらいいなと思うけど、読み手にはあまり伝わらないかもしれない。明け透けにはしていないけど、バレるとちょっと困るかもしれないようなきついこともこっそり書いてしまった気がする。ともあれ、この拙い織物にたくさんの記号を読み取ってもらえたら、わたしはとても嬉しく思います。