安心感とフォーク

寛解

 いまの自己へとつながる連続性の始まりは、たぶん中学3年とかそのあたりだと思っている。その頃から常に、「不安を感じていないと安心できない」状態でやってきた。何か見落としていることは、忘れていることは無いか。背後に危険は居ないか。そうやって注意深く周囲や視線の先に気を使っている間だけは安心できる。自分にとって不安は、意識のうちかなりの領域を他でもない理性と共有していた。不安には誤謬よりも筋の通った因果を見ていた。それらがまったくの別物だ(と、見なしてもとりあえずは問題ないらしい)ということは、OCDの行動療法についていくつかの本を読んで、実践して、初めて実感できたことだった。油断しちゃいけない、と意識し続けてきた割にはお粗末な欠陥を生むことも多々あったけれど、不安感のおかげで失わずに済んだものも(一種の不安障害であるとはいえ)多かったような気がする、ということは今も変わらない。
 精神衛生上穏やかな日々というのは、長く続く予感がしない。現在のような安心と不安のバランス感覚は案外脆く、ちょっとしたきっかけできっと崩れてしまう。いまはただ不安や災難がその手を休めてくれている。自分じゃどうしようもないので、今のうちにできることを済ませておこうという感じで過ごしている。本をたくさん読む。暗いばっかりじゃない音楽を聴いてみる。明るく振る舞う、とか。

 

レコード

 ある秋の夕方、ライブハウスの開場までかなり時間があったので、近くの公園のベンチに座り、寒さで半ば震えながら暇を潰していた。遊具では親子が遊んでいて、まだ少ない落ち葉は砂の上にぽつぽつと撒かれていた。高いビル(ただし田舎者の視点)と忙しない道路に囲まれた公園だから、車の音が子供の声をかき消しそうなほど絶え間なく流れていた。
 そこそこ広い公園の反対側、向かいのベンチに、すごくあったかそうな服を着込んだ女の人が座った(まるで真冬のような格好だったけれど、そうでもしないとちょっとつらい気温だった)。しばらくして彼女は、ウクレレか何かを弾きながら歌を歌い始めた。音はかすかに聞こえる程度で、その言葉を判別することはできなかったけど、こんな映画や小説みたいな場面に出くわしたことがとても嬉しくて、感激してしまう。時間になったので近くの出口から道に出たけど、何か声をかければよかったかな、と少し心残りだった。
 すっごく癒された。