5/26

多くの物事に関して理知的であって、感情よりも理屈の整理に徹することは良いことだと思う。社会問題や巷の話題、平凡な日常会話のなかに合理的な意見を述べられることは、良いこと。それが上手にできるなら自分もそうしたいと思うし、あこがれている。それでも自分が個人的な感受性を意識しすぎていて、内面の情景描写しかしない(それしかできないが)のは一応の理由があって、それを整理しておいてもいいかなと思った。前から思っていたことではあるけど、理屈の上の理屈を丁寧に練ったわけじゃないから、間違いだと思われるかもしれない。それはそれで、自分の能力不足。

 

内面のいろんな問題は論理で決着がつかない。感情的に上手くいかないことや、感性に響く何か綺麗なもののことは、理屈ではどうにかできない。それらは結局自分の中にしかない(人それぞれ持っていて、内に秘めているもの。でも例えば創作において自分の外に現れるかもしれない)から、誰に文句を言われることもない。ただ個人的な感受性から受け取る事柄を綴っていれば平和的だ。ひとりで感動して、ひとりで絶望したりするのは、誰にも邪魔されない。人それぞれだから。

 

論理は他人と共有されることができる。語ることばの意味を自分と他者が的確に理解し、また、理解される環境に身を置くというのが、合理的な意見や自己洞察を語るときに発生する状況だと思う。人目のある場所で、日本語で、理屈を組み上げていくこと。それは論理を共有するということであって、自分の外にはみ出る動きのように見える。街の中心にある広場に集まって、意見を投げ込み、あれこれ議論するような、そういう動き。

 

僕はそれに混ざりたくないし、そこにいる人々をあまり好きになれないとさえ思う。他人のその嗜好を否定しようとしているわけではなくて、あくまで自分は苦手だと思うだけ。理由は割と単純で、「バカがバレるのが怖いから」です。さも知ったげに持論を語ってみた経験は幾度となくあるものの、そのたびにやめときゃよかった、と思った。一度同じ土俵に上がってしまえば、その話題のプロフェッショナルはどこかにいるはずで(学者とかね)、それが分かっているのにインターネットの隅で意見を出し合うなんて、ちょっと恥ずかしいな。もちろんそれをやってる人が、言論界に無い新しい知見を献上しようなんて心持ちではなくて、ただ内輪の議論が楽しいと思ってやっているんだろうってことは分かっているつもり。

 

現代思想の分厚い書物を机に出してみて、何も吸収できずに終わってしまうことが増えてきてから、この知識が馬鹿にされちゃあ残酷だと思うようになった。自分の知りえないことは、考えだしたら気持ち悪くなるくらい多くあって、それに対して大した知識も持ち合わせていない自分が何を言ったって、思想界の偉そうな人や真面目に勉強してる人たちに失礼だなと。「知」に対して謙虚になることを強調しすぎるとそれはそれで一種の冒涜になるので、あんまり言いたくないけれど(今回は全部そんな話だ)。というか思い付きの言論なんてみんなある種の侵犯行為だろう。それを犯さずに済むためにはすべての「一言」の前に途方もない知識と思慮深さが必要で、自分はその点で自信がない。

 

自分程度の人間が何を言える? っていう気持ちがずっと前からあって、人々のする議論に混ざってしまえば自分の見識の浅さがきっとバレてしまう。それが怖い。まとめると、そういうことになる。


― ― ―
同じ理屈だけど、哲学者や思想家の名言だけ拾って便利に使うやつが個人的には苦手です
語り得ぬものには沈黙とか、地獄とは他人だとか、いろいろね(今考えてみたらあんまり思いつかなかった)
その言葉に至るまでの難解な思索を飛び越して分かりやすい部分だけ切り取っても、何もわかったような気がしないから、自分が自分に歯止めをかけてしまう
そんなに簡単な話じゃないだろう、って何に対しても条件反射的に考えてしまう
簡単なものもあるかもしれないけど

 

― ― ―
馬鹿がまたなんか言ってるよ、って思われるかな、それが怖いな。
少し意見が違う人だと思われるか、単に幼い人間だと思われるか、だいたい想像はできる。