いまが苦しくなければそれでいい


 簡単なことを見落としている気がする。自分以外の全員が世界の当たり前を知っていて、自分は笑われたままでいる。そんな不安がずっと消えない。

 

 人とは分かり合えない、と、使い古された言い回しをまた使うことが恥ずかしくなるくらいには、そのことを十分承知していたはずなのに。つよい実感があると、結局は怖がってしまうし、悲しくもなる。深いところで通じ合うなんてことはあり得ないとは分かっていて、それでもなんとなく分かった風のやり取りができればそれでいいと思っていた。ここ最近(もしかしたらずっと前からかもしれないが)表面的にも齟齬が出始めていて、いよいよかな、という気がする。いろんなことを知っていくと、可能性として残っていた未知の領域は狭まって、潜在的な希望がまったく意味をもたなくなることがある。共感の可能性を残された人がどんどん減っていく。孤独と呼ぶのもダサいので、自分をなんと形容するか分からぬ間に、近いうちに死んじゃうから、別に気にしなくてもいいと、ごまかしていた。

 

 人間であればおそらく通過することになる、あるいは続けなきゃならない面倒ごとを、「どうせすぐ死ぬのだから」と先延ばしにしてきた結果、いよいよ死ぬしかなくなっている。未来の自分がきっとどうにかしてくれる、という過去の自分との約束を守れたことは(記憶の限りでは)一度もない。たぶん、あとの自分に託そうと選択してやったことではなくて、先延ばしにする良い方法を前提において、思考をやめていたのだと思う。自分の手に負えないものは、ずぐに頭から出て行ってしまう。いまが苦しくなければそれでいい。と思っていた。これからもそう。

 

 死にたいと口にすることは、ただしたいことの表明でしかないのに、そこには救済を求める意味が勝手に添えられてしまう。もうやめたいんだよね、と親に言ったところで、そこで生きる希望(他の人はそう見えるらしい)を提示してもらったとしても、生きたくはないのだから、どうしようもない。だから何も話さなくなったし、秘密主義の悲観主義者とでも思われてるんじゃないかな。秘密にするのは、話しても無駄で、誰のことも頼ってないというだけなのに。

 

 きれいなものを見るには余裕が必要だ。苦役の中で感受性は死ぬ。だから働きたくない。ものすごく単純で、避けがたい。余裕がないとき(そういうときがあった)何も面白くなかったし、きれいなものは無かった。鬱のひとが歌う歌しか聴けなかった。好きな歌のほとんどを、耳が受けつけなかった。

 

 存在証明のために声を上げることは、攻撃か侵犯のどちらかだと思う。言葉の針をまき散らしながら刺したり刺されたりを楽しんでいるらしい。「私はここにいます」と言うことが何かを傷つけるなら、どうしたらいいんだろう。そればかり考えている。

 

 攻撃欲求からうまれる被害妄想は手の付けようがない。

 

 厳密に自分を責めたって、世の中の当たり前の間違いが見つかったって、結局誰もが経験的、因習的な頭でしか生きていけないのだと思う。何かを悩んだって、生き方がそう簡単に変わるわけじゃない。