花束を縫う道

部屋、そのほか

 壁を注視した経験が実はあまり無く、「見慣れた壁紙」なんて言えないことに気づく。家に帰りたいと言ってもべつに部屋が好きなわけじゃなくて、ここはただ安全なだけだった。外の冷たい空気のなか、人通りの少ない(ほとんどない)道を歩くときのほうが安心するもの。この部屋にはパソコンや本やCDが置いてあって、日用品が並んでいて、倒れたり乱れたりしたものは元の位置に戻す。最近は部屋でしかできないことどもにあまり固執しなくなった。ような気がする。たとえば部屋でもずっと本を読むとか、徐々に暗くなってゆく外を眺めるとか。そういうことができるのは心の余裕のせいか、心がけの違いだけなのか。机に積まれている、買いすぎた本たちが私を急かすので、それらを消化することばかり考えている。いつも自分が変わるのは、周りの環境や人間関係が変わったときだけだった。変わりたいなら周辺から変えてゆくこと、自分自身を変革するなんて無謀なことには挑んでも負けるだけだったから。

 

礼服のひとびと

 少し離れたところにあるお寺に、礼服姿のひとが集まっていた。ぞろぞろと何処かに向かって歩いてゆく人のなかには、花束を持った人、指にに煙草を挟んだ人。みんな悲しい顔をしてはいないから、これはきっと(決して頻繁ではないにしろ)慣習の色が濃く、そこに何か懐かしさを感じて、自転車でそばを通るとき嬉しくなってしまった。不謹慎だけれど、でも安心してしまう。親族たちが集まっているその人と人との間には、私が恐れるような想像を挟む余地がどこにもないから。回想や少しの怠惰だけが横たわる法事の雰囲気は、田舎のおばあちゃんの家のことや、読経の間に板張りの隙間から見ていた景色を思い出させる。

 

図書館

 ブラインドの影は時間が経つにつれて傾き、その手を伸ばし、ときには首筋に温かい光を届けている。いつも窓の向いている方角が分からなくなる。図書館の古い椅子と、思想事典の頁をめくったときの匂いと、無線イヤホンから流れる環境音楽は綺麗で、その場でルーズリーフにメモをしてしまう。少しのことでも忘れたくないから、綺麗な何かに気づくといつも急いでメモをとる。いつか思い出すだろう、ってくらいの楽天的な心持ちでいられたら、言葉じゃ足りない郷愁が未来に残ってくれるのだろうと信じている。あとになって訪れるそれはとても心地よい苦痛で、手放すことを嫌がって、きっと死にたくなるほどなんだろうと、今でもなんとなく想像できる。

 

9月の花

 車窓から見下ろした住宅街に、コスモスのたくさん咲いた広場があった。そこには一本の細い歩道が通されていて、日が暮れる色と相性の良い、きれいな場所だった。近いうちにここへまた来ようと思ったのに、結局行けなかった。それから2か月ほど経った今日、道端に咲いた花を見たときに、今年は何度コスモスを見ただろうかと思い返して、割と季節を享受していた事実を確認した。いっぽう、紅葉を撮りに行こうという気分に今はなれなくて、このまま多くのものが枯れてゆくのを眺めているだけになるかもしれない。冬の茶色の山肌を電車から見ていたときに聴いていた音楽を今流してみて、その乾ききった憂鬱が痛いくらい刺さる。いま、冬を迎える準備をのんびりやっているところです。

 

 久しぶりになんか書こうと思ったのだけれど、えらく牧歌的な雰囲気になってしまった。最近はそういう気分で過ごしています。すてきな季節。