写本

誰にも褒められず育った人間が自分のことを自分で褒めてやろうとするとき、その言葉には説得力が備わっているんだろうか。最近よく考えている。

 

自分はよく頑張っていると思う。動悸のするような、2年くらい積み重なっていた同じ不安が凝縮された一瞬を何度か切り抜けて、予定通りに物事は進んでいる。やらなければいけない(と自分に課した)事柄はすべて順調だ。でも不安なのはなぜか。自分は頑張ったと思うとき、人は後ろを振り返っている。これまで歩いてきた道筋と足跡を見て、安心したり、喜んだりする。登山の途中で振り返り、低い街を見下ろすようにして、自分はここまでやって来たのだと知る。ちなみに頂上は見えない。終わりが見えないので、これから訪れる苦痛の数が減ったことによって喜ぶのではない。ただ過去を見る。で、自分はそんなことしてられないのだ。ひとつの苦痛をパスしても、また次の不安を見つけて、正面の少し先にあるそれに向かって嫌々進んでいく。後ろ見てる余裕なんて、あんまりない(たまにある)。不安はひとつ消えるとすぐに次が取って代わる。その席が長い間空いていたことは無かったと思う。ちゃんと頑張ってる。だからそんなに不安にならなくてもいいのに。そう言い聞かせようとする。楽になった気がする。それは勘違いだったと気づく。

 

でもきっと大丈夫だろう。不安症の結末はいつも同じだ。あまりに厳しく見積もっているので、すべて終わった後には「思ったほどでもなかったな」って言えるんだから。

 

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甘えていてはいけないと思う。が、自分にとって何が甘えなのか分からなくなっている。ひとに頼ってばかりでは甘えだというけれど、自分にとってはひとに頼るのがとても大変なことで、それを避けて、一人になって逃げて引きこもったほうが楽で、それこそが甘えなんじゃないかとも思うわけで。友達と友達として付き合いたいけどいつまで経っても相手の本心を窺いながら、怖がりながら関わることにもううんざりし始めて、苦しんでまで一緒にいようとする必要なんてないと思って、いつも逃げるようにして離れて、一人で時間を潰している。

 

一人は楽だ。愛されたいなんて思ったことはない。最初から人間にはそんなの無理だとさえ思う。不埒な理由から寂しいなんて言い出しても、きっとすぐに忘れるだろう、そんなことは。だからこれでいいの。

 

そうしてまた厳しい冬に向かって、破滅の準備だけを進めてしまっているような気がする。殴り書き。部屋が寒い。