震え

メリーゴーラウンド

 怖かったことも終わってみれば大したことがなくて、その軽い気持ちの中では、「全部杞憂だった」で済んでしまう。そういう晴れやかな気分のときはもう、これからのことも、どうにでもなればいいと思えてしまう。いくらでも恐れればいい。時間は必ず決まった速さで過ぎていって、すべてはいつか終わるのだから。

 恐怖や不安の矛先は、実際には最初からないものなのに、ただ無条件に明日や明後日が怖い。それでも、時間は経ち、いつも根本的な解決を見ないまますべては終わっていく。終わったと思ったら、また次が始まる。また同じように恐れ疲れて、同じように終わっていく。そしてその次へ。

 

震え

 少し暇ができた深夜、外に出て氷と雪の上を歩く。震えが止まらなかった。身体はいつも生きることを疑っていないように見える。

 死に場所を探すように徘徊するけど、何せ田舎なもので、その手のことに使えるものは何も無い。夢遊病者のようにふらついて、わざと交番の前を通ってみたり、ここで倒れて眠ったら誰かが拾ってくれるだろうかって考えたりする。苦しいとか終わりがないとか、赤の他人に知らせても迷惑がられるだけだろうけれど。それでも立派な仕事の一部として誰かが僕を運んでくれたら、嬉しいのかもしれない。

 病人でいるときは、すべて許されるような気がする。でもそんなことは無いだろう。自殺を試みて失敗した人は、その後の人生をまるで番外編のように、気楽に生きていけるんじゃないか。と思うこともあるけど、それも多分失礼なことだろう。弱さや脆さをこの口から告白して、「お前はもう何もしなくていい」と言ってもらえることを夢見ながら暮らしている。こんなに甘えた人間が、まだ言い訳ばかりしている。