gigi

 住み慣れた土地を歩いても好奇心が動くことはなく、つまらない散歩を続けている。たいして遠くにも行けないから飽きてくる。多くのことに新鮮さや興味を感じられた頃が確かにあったのに、今はそれよりも不安と倦怠感が勝るようになった。この神経質は歩き方や表情に表れるだろうか。世捨て人のような姿には(まだ)ならないように気を付ける。それに、昔のような無邪気さを永遠に失ったとは思っていない。状態が良くなれば、自然と外出を楽しめるようになる、気がする。最近は写真も撮ってない。私にとってカメラは、身近な世界の日常を切り取って美化するよりも、ちょっとした旅行を記録するために装備するものだった。遠出する機会も気力も失せて、カメラに触れることも無くなってしまった。

 

 非日常の出来事や景色をあとで思い出す時のために写真を撮っていたのに、実際はそんな風に思い出に浸ったりはしない。思い出は美しいままで甦ったりしないということを知って苦しくなるから。新しい感動が何ひとつ残ってない癖に不安ばかりが募るような未来への失望が一層深まるから。

 

 思い出が美しいのは、身体感覚が欠如しているからだと思う。かつてそれを体験した時の疲労や全身の触覚、頭痛、居心地の悪さ、そうしたものが全て抜き取られて、目の前のイメージだけが残った記憶の映像。そこには不安さえ残っていない。たぶん不安という現象は身体に(特に神経と心臓に)所属している。だから不安のない過去のイメージは、何もかも上手くいっていたかのような錯覚を与えてくれる。あの時だって苦しみは確かにあったのに、思い出はそのことを思い出させはしない。

 

 思い出が悲しいのは、それが常に終わったことを表象しているからだ。写真も同じ。だから、「あなたの人生の物語」(映画『メッセージ』)のように未来を思い出すことがあったら、それはもっと悲しい。記憶の中ではこれから先の未来さえも終わったことになってしまう。人生の全てを既に終わった出来事として経験しなきゃならないなんて。

 

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 簡単な日記や思索のメモは書き続けている、けれどここに上げておくようなものはあまり無かった。張り切って主張できるほど明快な内容ではない。何だか最近は常に頭が混乱している。冷静になると、考えたくないことまで考えてしまう。