子供達へ

 自転車に乗ったのは数ヵ月ぶりだった。ついこの前まで雪に埋もれていたもので、カゴの錆がそろそろ見過ごせない状態になっている。まずいな、と思ったけど、きっと去年も同じことを思ったはずだ。だからって何かするわけでもないから。
 油を差した歯車や空気を入れたタイヤが滑らかに回るように、重い枷から少し解放されたあの身軽さを感じてみたい。それをひたすら望んで何年も経つけど、腰は重くなる一方だった。やるべきことは積み上がっているのに、次の行動を決定できないまま時間が過ぎる。何本かのヒモでいつも機械に繋がれて動けない自分は、たくさんの管を射し込まれた危篤状態の病人と少し似ている。理性と同じかそれ以上の大きさで、強迫観念が頭を支配している。圧倒的な現実がここにあると思い込んでいる。神経や脳は身体の一部なのだから、あなたは自分の身体をコントロールできないとても危ない人間です、と言われても否定できない。

 

 就寝前の30分は、明日は何でもできるという気持ちになれる。明日には何かが良い方向へ変わっていて、やる気も出て楽になれる気がする。そんなことをほとんど毎日考えて、何も変わらないままここまで来た。毎朝目が覚めても自分は自分なのだと確認しながら、あまりにも長い1日のことを考えて疲れてしまう。
 すべてが終わったときの安心感は、もう何も心配することないんだと解るその感じは、本当にすべてが終わる瞬間にしか訪れないのかもしれない。素朴だけど、雲があってもなくても、どんな時間でも空が美しいことや、憧れていた風景が理想と同じ鮮やかさで目に映ることなどを素直に受け入れて、深呼吸できるそのときは、死ぬときなのだろうと思う。――「いい天気じゃないか」。

 

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 「子供達へ。」
 誰のものでもないこの台詞が、ずっと記憶に残り続けている。どこに語りかけているのかも分からない。ただ、今際の雰囲気が容易に読み取れるこの言葉を、なんとなく大事にしたくて、ずっと抱えている。自分が自然にそう記すことがあるなら、宛先は誰だろう。
 たとえば昔の自分とか。最近は小さい頃のことをよく思い出そうとしている。座ると音が鳴る、幼児用の椅子。風が吹くと喧しくなる窓を怖がっていたこと。夜の車から眺めた明かりと、音楽と、帰りたい/帰りたくないが極端に揺れる気分。どうやって登ったのかも分からない場所から落ちて腕を折ったこと。近所の子供たちの顔と名前はほとんど忘れた。
 たとえば、親族がみんな集まる場所でいつも一緒に遊んでくれる、まだ小さい従弟たち。自分は20を過ぎても彼らの仲間だった。アルコールから離れた場所で遊びに付き合っている時間が大切だった。友達のような距離感で子供と遊んでくれる大人に、昔から憧れていた。

 

 これから生まれてくる無数の子供達。
 生まれてしまったことの後悔を背負っているように見えた、そんなふうに見てしまったことの後ろめたさを隠しながら、自分はまだ、子供達と遊びに出ていくことだけを夢見ている。始まってしまったら取り返しがつかなくて、これからの道筋を誰かの思い通りに直すことは難しいから。彼らに何かを言い残すにはもう遅すぎるから。