その他の悪

 いつもその後になって、自分のやったことは如何様にも解釈できてしまうことに気づく。ほとんどの行為は自分を追い込むためだったとも、反対に甘やかすためだったとも言えてしまう。敢えて人との関わりを避ける、安直な自己アピールに走らない、欲求が発散されて気分が良くなるだけの諸々を嫌う……など。もしどんな行為にでも言い訳を着せることができるなら、そうやって繰り返される遠回しな自傷行為だって真意は裏にあったのかもしれない。もっとも意識の本当の裏側は、どう強く賢く意識しても気づけないからこそ裏だと言える。抑圧された何かに一人で気づくなんてことは、抑圧の定義からして不可能なんだろう。こうして自分が気づけたのは、隠されたものとは別の何か、辻褄が合ってるだけの虚構だ。

 

 巷に転がる意見や「事実」から、自らの知識でも思考でもなくただ直感に適うものだけを拾って、それらを「正しい」と断定するだけの言説に見るべきところはない。底(奥行き?)の浅い人間の言う「深い」にたいした深さは無い。最近本を読む時間が格段に増えたけど、そうしている間は本当に安心を感じられる。うんざりするほど程度の低い言葉に触れなくて済むから。

 

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 小さい頃から、不安と恐怖の混ざり合った気分で、「自分の両親は人間じゃないのかもしれない」と思うことが多かった。この世で本当の人間は自分だけ!という妄想は今はもう無いけれど、両親が一体何者なのか、未だに考えてしまうことがある。自分には、恥なんて無いみたいに欲望を表に出して他人に接触していこうとする、そして結果的に人生が上手くいくタイプの人間を「あっち側」だと思って目の敵にするきらいがあるけど、自分の周囲にいる大人たちが若い頃どんな種類の人だったのか、想像するのは楽しくもある。その区別で言うなら、ちゃんと大人になって結婚して子を産んで、、とやってきた両親は間違いなくあっち側で、自分とは種類の違う人間じゃないか……。

 

 両親はとてもしっかりした人だけど、その人生で決定的に間違ったことがあるとすればそれは自分を産んだことだ。自分は人並みかそれ以上に親を恨んでいた。「両親は人間じゃないのかもしれない」というかつての不安は、本当は「両親が人間じゃないものであってほしい」願望だったのだと、最近になってようやく分かった。